B0006.越智春海

2015年3月30日 (月)

ニューギニア決戦記(7) / 越智春海


兵科記号について

文章の理解の一助にと、図を多用しています。
ニューギニア戦は、登場部隊数も多く、兵科(軍内で細分化された部隊の専門職)も多岐に渡ります。
図に部隊名を入れて行くのは煩雑で、またごちゃごちゃして見にくくなってしまいます。

軍隊では昔から、兵棋演習(図上演習)の際、兵科記号を用いていました。
現代では、軍の作戦を図示する場合、NATO軍の標準化された兵科記号を用いるのが一般的なので、以後これに倣い図示して行きます。

部隊規模に関しましては、前回の記述を参考に願います。

前回の記述は日本陸軍に関するもので、アメリカ軍、オーストラリア軍には以下の例外があります。

1.「師団」の上位組織は「軍団」、「軍団」の上位組織は「軍」
2.オーストラリア軍はイギリス式編成ですので、大隊の上位組織は「旅団」、「旅団」の上位組織が「師団」
3.アメリカ軍海兵部隊は部隊番号に「M」をつけています
4.可能な限り部隊番号をつけていますが、以下の場合部隊番号をつけていません
・独立部隊
・集成部隊(つまり寄せ集め部隊)
・部隊番号が不明
・独立部隊を除く、日本軍、アメリカ軍の大隊以下、オーストラリア軍は中隊以下
5.兵科記号で、機械化されているかされていないかの区別がつけられますが、煩雑になるので割愛しました
・日本軍は機械化されていません
・アメリカ軍、オーストラリア軍は機械化されています
6.騎兵部隊は、この時代には馬には乗っておらず、歩兵として戦いました
7.参考までにアメリカ軍の歩兵部隊の規模は以下の通りとなります
・師団 約15,000人
・連隊 約3千人
・大隊 836人
8.参考までにオーストラリア軍の歩兵部隊の規模は以下の通りとなります
・師団 13,000-18,000人
・旅団 約3,500人
・大隊 800-900人



第七章 安達司令官の最後

変更された総軍命令

18軍残余、5万5千の内訳は、20師団6割、41師団8割、51師団3割の充足度。

戦闘部隊は、10割の充足度で最大戦力を発揮するよう、編成されています。
ぶっちゃけ仕事に例えると、10でかつかつで仕事をしているのに、8人に減らされる、6人に減らされる、3人に減らされると考えて頂けると良いでしょう。
8人で10人分の量の仕事は、出来なくはないかも知れませんが、長期間に渡ると疲弊します。
6人の場合は、10人の仕事量を継続してこなすのは、不可能ですね。
仕事の成果を減らさなければ、機能しないと思います。
3人の場合は、戦力として期待出来ない状況です。

ホーランジアは遠いので、まずはアイタペ奪回作戦を企図しました。
20師団、41師団を主として攻撃兵力としましたが、それでも兵力不足で、ウエワク防衛任務の51師団の一部も攻撃部隊としました。

20師団の攻撃準備前進は、計画通り進みましたが、補給の確保で頓挫しました。
一部は舟艇による輸送、またウエワク-アイタペ間に60kmの道路設営をして補給路とする計画でした。
舟艇による輸送は、途中に適当な隠匿泊地、揚陸地点がなく、せいぜいウエワクから60km先までで、アイタペまでの移送は困難。
5月から6月のスコールの気まぐれな天候により、道路設営も遅延しました。
そのため人力で、補給物資を運ぶ事にしましたが、戦闘部隊まで担送部隊に組み込まざるを得ず、戦闘力を減じました。

敵は、こちらの攻撃を予測しており、海岸に戦闘艦艇が現れては、砲撃して行きました。
擬装が十分でなかったか、ウエワクの食料の大部分が空襲でやられてしまいました。
そのため部隊の食料は、1/3定量(通常支給食料の1/3支給)となり、ますます疲弊しました。

当初、6月上旬作戦実施予定が、準備が間に合わず延期となりました。

6月21日、南方総軍からの電報で、第2方面軍旗下から南方総軍直属となり、任務は現在地の持久となりました。
これはアイタペ攻撃をしなくとも良いと言う事です。

攻撃準備が完了しかけていて、ここで中止すると士気が瓦解する恐れがありました。
またせっかく前進させた食料、武器、弾薬を回収するのは不可能な事から、安達司令官はあえてアイタペ攻撃を実施する事にしました。
この攻撃によって、他戦域への圧力を少しでも減らせれば・・・と言う想いもあったでしょう。

しかし越智は、それでも万が一にも成功の望みのないアイタペ攻撃をした事を、批難しています。
アイタペ攻撃は、他の戦記を呼んでも、作戦実施を批難する論調を見かけません。
日本人は悲壮感、壮烈感に弱いとも指摘しています。
自分は仕事をしていて、負けるのが分かっているのに、戦いをやめる勇気を持たず、あたら人物金を浪費する上司を何人も見ました。
仕事で人は死にませんが、戦争で人は死にます。

7月1日、安達司令官が攻撃命令を下しました。
この時の訓示の要旨は、「18軍の中外に宣揚し、西部ニューギニアで奮戦している友軍(第2方面軍の36師団)の意気に応えよう」というものでした。

1.20師団主力および41師団237連隊で、7/10に坂東川を渡河して敵前進陣地の中央を突破する
2.引き続きアイタペの敵本陣に迫り所要の準備を整えた後、軍の全力を振るって之を攻略する
3.その間、補給は両師団携行するのほか、全兵站部隊の突入輸送によって維持する
4.攻略後の補給は、アイタペの舟艇秘匿位置を利用して、ウエワクより大発輸送するのほか、敵糧による
5.全作戦を通じ、主決戦場は海岸付近の平地方面に求める
6.ただし一部をもって山地方面より、敵側背を脅威し、主力の攻撃を容易ならしめる

アイタペ攻撃計画

越智は、大発(舟艇)を使っての輸送は、当時制海権のない日本軍には不可能だったろうと書いているし、事実その通りだったろうと思います。
それ以外にも、素人の自分が思うに、兵力欠乏した中で、兵力を分割して山地からの迂回攻撃に意味があったのかどうか。

実はマッカーサー軍は、この攻撃作戦を予想していて、ニュージーランドで休養していた米43師団、米124連隊、米戦車112連隊、砲兵連隊を正面に配置し、陣地構築していました。
つまり休養十分、武器、弾薬、食糧も十分な1.3個師団を攻撃する訳です。
マッカーサー軍は前進陣地として、ドリニュモール川(坂東川)に歩兵3個大隊、砲兵1個大隊を配置しました。

この部隊は、いつでもどこでも戦闘艦艇からの海上砲撃、航空支援が出来、反撃部隊として戦車連隊もいます。
もし日本軍が定数だったとしても、米軍歩兵師団とは大砲の門数で1:8の差があり、さらに砲兵連隊を増強されているので、その差10倍以上。
いえ、弾薬備蓄から考えると、さらに数倍の火力差があったでしょう。
日本軍の火砲は大部分が旧式で、日露戦争時より少しマシな程度でしたので、火力差はさらに大きかったでしょう。
18軍は戦車を持たず、しかも日本軍は対戦車戦が著しく遅れていて、歩兵による火炎瓶、爆薬以外の有効な対策はありませんでした。

つまり必要量の1/3しか食べられず、長躯100km近く行軍して疲弊した対戦車手段を持たない日本軍が、休養十分、火力充実、制海権、制空権を持ち、堅固な陣地に拠り、豊富な戦車、火砲を持つマッカーサー軍に攻撃したのです。

中部太平洋、豪北地区の戦局

5月27日、米軍のビアク島上陸、8月20日には陥落。
6月15日、米軍のサイパン島上陸、7月6日には日本軍守備隊は、事実上玉砕しました。
6月19日-20日、日本海軍はマリアナ沖海戦で、参加したなけなしの空母9隻の内、沈没3隻、損傷4隻と大惨敗しました。
6月下旬、サルミの戦闘が終結。
7月2日、米軍のヌンホル島上陸、8月31日には陥落。
7月18日、サイパン失墜により、周囲の圧力に屈し、東条内閣が辞職しました。
7月21日、米軍のグアム島上陸、8月11日には陥落。

もはやアイタペを取るか取らないかが、戦局に影響する事はありませんでした。


アイタペ攻略戦

坂東川の戦闘

7月10日、78連隊、80連隊、237連隊は坂東川を渡河しますが、敵軍の阻止放火で多数の死傷者が出ました。
それでも屍を乗り越え、突入したため、敵の海岸部隊は後退。
右翼の237連隊は海岸線に向かい旋回、78連隊、80連隊は左旋回して敵陣奪取の後、アイタペに向かおうとしましたが、敵陣が堅固で膠着。

後退したかに見えた敵は、ジャングル内に開設した通路より迂回して、味方を攻撃して来ました。
越智はこれは、敵側の作戦計画通りの行動だったろうと見抜いています。
安達司令官は、前進陣地突破後、投入するつもりだった41師団残余を、予定を繰り上げ坂東川に投入せざるを得なくなり、それも間に合わず237連隊は敵中に孤立しました。

この情勢に、中井20師団長は、予備の79連隊で敵陣地右翼のアフア付近の高地帯を占領、敵陣地最右翼を迂回して坂東川を渡り、アフア地区で反撃して来た敵と交戦しました。
当初の計画では、海岸を主攻撃する予定でしたが、敵の主攻も海岸沿いの右翼で、優勢な敵に圧倒されていました。
237連隊が包囲された敵の反撃に対応するため、皮肉にも敵の抵抗が少ない内陸高地から海岸線に向けて攻撃せざるを得なくなりました。
もはやアイタペ攻略どころではなく、坂東川の前進陣地の突破に、全攻撃部隊を投入せざるを得なくなりました。

戦線の各所で優勢な敵に攻撃を阻止され、損害続出、各歩兵連隊は定数3千8百名のところ、百人前後まで激減しました。
もはや攻撃を続ける事は、目的を果たさず、損害を増すだけ。
8月3日、安達司令官は攻撃を中止し、ウエワクに後退して持久するよう命令しました。

恐らく想像ですが、マッカーサー軍が苦戦していたら、もっと多くの兵力が投入されたと思いますが、そうではありません。
連合軍の損害は軽微だったんじゃないかと思います。
日本陸軍は、やたら攻撃したがりましたが、編成上火力は劣り、機関銃も少なかったので、損害の割りに成果は少なかったように思います。
むしろブナ/ギルワ戦やペリリュー島、硫黄島、沖縄で見せたように、固く守った場合の方が、連合軍に恐るべき損害を与えています。
それでも上級司令部は固く守るのを卑怯と考え、あまつさえ防御に徹した指揮官を罷免さえしたのです。

攻撃するより、後退する方が難しいものです。
20師団が陽動攻撃して、その間に41師団は反転攻勢して、坂東川を渡り後退しました。
その間20師団は、坂東川の線を防衛しました。

2週間後、後方のヤムカル/マルジップ地区に後退、終結した時には、総員2万2千人。
苛烈な戦闘で、1万3千もの大損害を受けていました。
8月下旬に5日定量の食糧(18軍にとっては1/3定量なので15日分の食糧)を受領し、ウエワク、ブーツ地区に後退しました。
長蛇の行軍となり、先頭部隊がウエワク、ブーツ地区に到着したのが11月、防御体制が整ったのが12月中旬頃。
重傷病兵を伴っての、徒歩による行軍で、半数が戦闘によらず、途中で行き倒れたとも言われています。

なお、この本には載っていませんが、日本兵が友軍、現地人を襲って人肉を食べた事件があったと言われていますが、この頃の事です。
それだけ限界を超えた状況だったのだと思います。


玉砕寸前の終戦

ニューギニアとソロモンに取り残された部隊

米軍はもはや、疲弊した18軍に興味はなく、窮鼠猫を噛まれては大変と放置しましたが、オーストラリア軍は別でした。
元々ニューギニアを統治していましたので、原住民への威信上からも、日本軍を放置しておけなかったのです。

ラバウルは日本軍の大兵力により、要塞化していましたので、手を出しませんでしたが、疲弊したブーゲンビル島とニューギニアの18軍に11月頃から攻撃を始めました。

自分は終戦間際、オーストラリア軍と日本軍との間で戦闘があったのは知っていましたが、この本を読むまでは小競り合い程度だろうと根拠なく思い込んでいました。
米軍と交代したオーストラリア6師団が、東方進撃と称して、18軍に攻撃を仕掛けました。
豪6師団は、制海権、制空権を得、また火砲も十分にあり、戦車の支援も受け、ハンティング感覚で日本軍を攻撃しました。

ニューギニアに進駐し、軍紀厳正だった日本軍に原住民は好意を持ち、ニューギニア戦全般で道案内に、補給品の担送にと協力してくれました。
終戦間際の絶望的戦闘で、日本軍には補給をする余力がありませんでしたが、原住民が補給品の担送を引き受けてくれました。
恐らく、日本軍陣内で、銃火に倒れた原住民も多くいた事でしょう。

青津支隊は1945年2月までソナム地区を防衛していましたが、その後戦闘はブーツ、ダグア地区に移りました。
ブーツ、ダグア地区は中井20師団が防衛して、豪軍はここを抜けませんでした。
そのため上陸用舟艇と水陸両用戦車を使い、ウエワク東方に上陸して来ました。
豪軍1個旅団は、山側からマブリック地区に攻撃を加えましたが、20歩兵団長三宅少将が死守していました。
安達司令官はマブリック地区を重視し、海岸地区の放棄、ブーツ地区の20師団を投入しました。
豪軍は、手薄になったウエワク地区を占領し、山側に向かって51師団に攻撃を加えました。
豪軍の攻撃で、日本軍は玉砕する部隊が続出しました。

豪軍が大損害を受けていたなら、こんなに攻撃はしなかったでしょう。
恐らく日本軍の何十分の一、何百分の一の死傷ではなかったかと推測します。
太平洋戦争の豪軍の戦死者数は、太平洋の全戦域合計で1万7千人。
これでも18軍の全戦死者の1/10くらいです。
ニューギニア戦線だけなら、この半分以下の損失じゃないでしょうか?

この本には載っていませんが、41師団歩兵239連隊の第2大隊残余、竹永正治中佐以下42名が、日本軍としては珍しい集団投降しました。
一説によると、239連隊が第2大隊に連絡もなく、移動してしまったため、敵中に孤立してやむなく降服したとも言われています。
竹永正治中佐は復員後、恥じたのか戦友会にも入らず、土木作業員を務めた後病死しました。
この後終戦まで、日本軍の集団投降が41師団で2件発生しました。

9月中には食糧がなくなる事になり、そのため8月に最後の突撃作戦が予定されていました。
8月8日に、防衛線中央キャリブに敵が侵入し、陣地を築き始めました。
18軍は攻撃しつつ、キャリブ陣地の拡大を防止しましたが、部隊の玉砕が相次ぎ、このままでは8月に全滅する危険さえありました。


安達中将の自決

8月15日に、日本は無条件降伏しました。
さすがに豪軍の攻勢は弱まりましたが、8月15日以降も小規模な戦闘は続きました。
戦闘も8月末までには完全に止み、18軍は再び第8方面軍に復帰しました。

再び指揮下に入った第8軍司令官、今村均大将の命令で、オーストラリア軍に降伏しました。
一時は最大14万もの陸海軍将兵がいましたが、ニューギニアでの、のべ戦死傷者約14万5千名、最後に残ったのは1万3千人。
民間人も含め、日本にたどり着いたのは2万人弱と言われています。

1947年9月10日、降伏後の残務処理が一段落して、戦争裁判も終了したのを見届け、上官の今村大将、復員局長の上月中将宛に遺書を残し、安達中将はラバウルで自決しました。
自分個人としては、安達中将の自決に意味があるとは思えません。

越智は遺書の文を引用しています。
「小官は皇国興廃の関頭に立ちて、皇国全般作戦寄与のためには、何物もを犠牲として推しまざるべきを常の道と信じ、打ち続く作戦に、疲弊の極に達せる将兵に対し、さらに人として耐ええる限度を遙かに超越せる艱難敢闘要求致し候。之に対し、黙々と之を遂行し、力尽きて花吹雪の如く散り行く若き将兵を眺める時、君国のためとは申しながら、その断腸の思いは、神のみ知ると存じ候。当時、小生の心中固く誓いしところは、必ずこれら若き将兵と運命を共にし、南海の土となるべく、例え凱陣の場合といえども帰らじ、とのことに之あり候・・・」

越智はこの死を、肯定的に捉えています。
一方的に部下に死を命じ、前線逃亡してまで命を全うした指揮官も少なくありませんでした。
度々前線の死地に向かい、最後まで部下と共にあった安達中将には、死んで欲しくなかった。

ニューギニア戦を見て行くと、いかなる名将でも、どうしようもなかったと思います。
3個師団ではニューギニアを守るのに兵力が少な過ぎ、そしてたった3個師団の補給もままなりませんでした。
海軍に攻勢終末点の発想があったのか、なかったのか知りませんが、ニューギニアは攻勢終末点を越え、補給限界を超えた地で、日本軍は通産3年も戦い続けたのが、この悲惨な結果でした。

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2015年3月27日 (金)

ニューギニア決戦記(6) / 越智春海


兵科記号について

文章の理解の一助にと、図を多用しています。
ニューギニア戦は、登場部隊数も多く、兵科(軍内で細分化された部隊の専門職)も多岐に渡ります。
図に部隊名を入れて行くのは煩雑で、またごちゃごちゃして見にくくなってしまいます。

軍隊では昔から、兵棋演習(図上演習)の際、兵科記号を用いていました。
現代では、軍の作戦を図示する場合、NATO軍の標準化された兵科記号を用いるのが一般的なので、以後これに倣い図示して行きます。

部隊規模に関しましては、前回の記述を参考に願います。

前回の記述は日本陸軍に関するもので、アメリカ軍、オーストラリア軍には以下の例外があります。

1.「師団」の上位組織は「軍団」、「軍団」の上位組織は「軍」
2.オーストラリア軍はイギリス式編成ですので、大隊の上位組織は「旅団」、「旅団」の上位組織が「師団」
3.アメリカ軍海兵部隊は部隊番号に「M」をつけています
4.可能な限り部隊番号をつけていますが、以下の場合部隊番号をつけていません
・独立部隊
・集成部隊(つまり寄せ集め部隊)
・部隊番号が不明
・独立部隊を除く、日本軍、アメリカ軍の大隊以下、オーストラリア軍は中隊以下
5.兵科記号で、機械化されているかされていないかの区別がつけられますが、煩雑になるので割愛しました
・日本軍は機械化されていません
・アメリカ軍、オーストラリア軍は機械化されています
6.騎兵部隊は、この時代には馬には乗っておらず、歩兵として戦いました
7.参考までにアメリカ軍の歩兵部隊の規模は以下の通りとなります
・師団 約15,000人
・連隊 約3千人
・大隊 836人
8.参考までにオーストラリア軍の歩兵部隊の規模は以下の通りとなります
・師団 13,000-18,000人
・旅団 約3,500人
・大隊 800-900人



第六章 崩れ行く戦線

ダンピール防衛の崩壊

ニューギニア、ソロモン方面の情勢

この時までの、ニューギニア、ソロモン方面の情勢は、以下の通りでした。

1943年10月27日、米軍のモノ島上陸
1943年10月31日、米第3海兵師団のブーゲンビル島タロキナ上陸
1943年11月21日、米第2海兵師団のマキン島、タラワ島上陸
1943年12月15日、米軍のニューブリテン島マーカス岬上陸
1943年12月26日、米第1海兵師団のニューブリテン島グローセスター岬上陸
1944年1月20日、ニューブリテン島西半(陸軍航空基地ツルブ含む)放棄を決定

マーカス岬の失墜は、ダンピール海峡防衛がもう難しい事を意味し、12月15日第8方面軍は、ダンピール海峡両岸の放棄を決定しました。
フィンシハーフェン方面死守から、ラコナ-シホの線にて持久に戦略方針が変わりました。
死守は、死ぬ気でその地を守ると言う事で、持久は出来るだけその地を守り、難しければ後退も可です。

ラコナ-シホの線まで後退しなければなりませんが、米軍を陽動攻撃して12月19日にフィンシハーフェンから離脱出来ました。
安達18軍司令官は、12月上旬に41師団をマダンに向かうよう命令していたので、ニューギニアの主力はウエワク以東に全て配置された事になります。


昭和十九年の正月

米軍のグンビ岬上陸と、日本51師団、20師団の退却

20師団のラコナ-シホの線までの退却(日本軍の用語では転進)は、延々の縦隊による行軍で、年末まで完了しませんでした。

1944年1月2日、ニューギニアのキアリとマダンの中間、グンビ岬に米第32歩兵師団126連隊が上陸しました。
これがマッカーサーのカエル飛び戦法の始まりとされますが、フィンシハーフェン上陸もその一環ではなかったかと思います。
以後、日本軍はカエル飛び戦法に翻弄され、なす術なく戦力をすり潰して行きました。

第8方面軍は、18軍のシホ防衛の任を解き、マダン終結を命令しました。
安達18軍司令官は、20師団と51師団の残余に対し、グンビ岬の敵を避け、フイニステル山脈北斜面を通りマダンまで転進を示しました。
経路は再び、サラワケット越えに匹敵する、道なき密林の300kmにも渡る山地越え。
山地越えなので、実質3倍の900kmの行軍と考えられ、この時点ですら絶望的に食料が欠乏していたのに、道中補給の術はありません。

41師団は、阿部平助中将から、真野五郎中将に交代していて、真野五郎中将は道なき自然に遮られ、部隊掌握出来る地までなかなか進出出来ませんでした。
41師団はマダンになかなか到着せず、安達18軍司令官から再三の督促を受けました。

転進して来る20師団と51師団を収容するため、グンビ岬に上陸した敵がマダン方面に進出しないよう手を打つ必要がありました。
安達18軍司令官は、中井支隊を2分して、この方面に当たらせる事を命令しました。
撃破されていない敵を前に、兵力を2分するのは下策でしたが、割ける兵力が他にありませんでした。


ラバウルの落日

中井支隊の奮戦

20師団と51師団は、原住民の協力を得、延々と続く縦隊で、フイニステル山脈北斜面を進軍しました。
時には断崖に、ロープを頼りに進み、突然のスコールの濁流に飲み込まれ、姿を消した兵もいました。
低地では酷暑、高地では冷涼な気候で、栄養士失調の脱落者も少なくなく、マラリアに倒れる兵も多くいました。

難行軍を経て、縦隊の先頭が中井支隊に収容されたのが2月中旬、2月末までには全軍終結出来ました。
中井支隊に到着した先鋒の北本工作隊は、食料、衣料品を背負い、来た道を戻り、落語しかけている700名もの兵の命を救いました。
転進前1万3千の兵は、9千3百に減少しました。

分割された中井支隊は、全部隊収容後、再び歓喜嶺の防衛に着きます。

中部太平洋方面の戦局

中部太平洋方面に目を向けますと、1944年2月1日、米軍のマーシャル諸島中枢、ルオット島、クエゼリン島上陸しました。
旧日本海軍は、マーシャル諸島南端から攻撃して来ると考え、作戦準備していましたが、裏をかかれ決戦も出来ず狼狽。

2月17日-18日、米軍機動部隊による旧日本海軍の最重要基地、トラック島空襲で、海軍施設、航空基地、停泊艦艇が壊滅的打撃を受けます。
トラック島空襲までは、陸上航空基地は不沈空母で、これを艦艇で攻撃するのは下策と旧日本海軍では考え、米軍から空襲を受けるとは考えておらず、擬装も全くしていませんでした。
この空襲の影響で、ラバウルの航空兵力をトラック島に引き上げ、ラバウルは近辺を航行する米軍に何も影響を与えない、文字通り南海の孤島なります。

2月19日、米軍はトラック島のブラウン、メリレンに上陸、24日までに占領されました。

2月23日、米軍がマリアナを空襲し、海軍機93機を失いました。

2月29日、米軍がログネグロス島に上陸、すぐに事実上占領されました。
しかし小部隊による抵抗は、3月下旬まで続いていたようですが、戦局には何ら影響のあるものではありませんでした。
ログネグロス島アドラーは広大な港湾で、大きな海軍部隊を収容できました。
島は平坦で、いくつも飛行場を作る事が出来ました。

これにより、第8方面軍司令部のあるラバウルは、18軍のいるニューギニアとの連絡線も断ち切られ、完全に孤立しました。
しかしラバウルはまだ陸軍7万5千、海軍4万の兵力があり、要塞化されていましたので、米軍はあえて攻撃する事をせず、そのまま終戦を迎える事になります。


第二方面軍への転出

ソロモン・ニューギニア・豪北地区の日本軍配置

ニューギニアの18軍は、1944年3月14日、連絡線の途絶えた第8方面軍から、ニューギニア西部、豪北地区の第2方面軍に編入されました。
第2方面軍の担当戦域は、おおまかにはフィリピンとオーストラリアの間で、モルッカ群島、小スンダ列島、セレベス島、ニューギニア西部です。

大本営の意図としては、マッカーサー軍(米軍/豪軍)がフィリピンを目指しているので、連絡線が切れた第8方面軍より、進路上の第2方面軍の方が都合が良いと、越智は書いていますが、本当でしょうか?
これが越智の想像なのか、引用先があるのか、明らかではありません。
後年分かっている事は、大本営では、マッカーサーのカエル飛び作戦を把握出来なかったようなのです。
このタイミングで、マッカーサー軍がフィリピンを目指していたと、見抜けていたんでしょうか?

編入先の第2方面軍では、迷惑だったようです。

第2方面軍は、4ヶ月前・・・1943年12月に統帥を発動(正式に活動開始した)したばかりで、作戦地域は海軍と複雑に入り組んでいました。
容易に作戦計画は決まらず、予定していた兵力は届かず、軍需物資も揃わず・・・1月には参謀を東京に急送して、部隊や軍需物資の移送の督促をしましたが、かえって3月分の輸送の大部分を打ち切られました。
これは、どこの戦域でも同じ状況だったのに、米軍潜水艦の跳梁(ちょうりょう)で、輸送船の多くが沈められたため、無い袖は振れなかったようです。

やっと部隊の配備計画が決まったところでの、疲弊部隊の18軍の編入だったようです。
第2方面軍の最初の命令は、ウエワク以西に移転し、ホーランジア、アイタペ、ウエワクの航空基地の保持と、上陸してきた敵軍の撃破でした。

第2方面軍ですら、ほとんど補給がないので、18軍の移動にあたって補給はゼロ。
現在地のマダンから、最寄のウエワクまで直線距離で400km、一番遠いホーランジアまで800kmもあるのです。
ウエワクからホーランジアは、海岸沿いに道路がありましたので、行軍は容易。
しかしマダンからウエワクまでは、道なき千古のジャングルです。
途中ラム川、セピック川と言う大きな川があり、船でなくては渡れません。

2ヶ月の予定で、ウエワク目指して行軍しました。


捨てられた軍団

中部太平洋・ニューギニアの戦局

3月30日に、パラオ空襲があり、逃げられる艦艇は遁走しましたが、輸送船等の足の遅い艦艇は大損害を被りました。
日本海軍は、パラオ、ペリリュー島、サイパン島、グアム島から100機以上かき集め反撃しましたが、一方的に大損害を被り、部隊は壊滅しました。

その際のどさくさで、連合艦隊司令長官、古賀峰一大将が遭難して戦死。

4月22日、マッカーサー軍のホーランジア、アイタペ上陸。
ホーランジアは、日本軍の後方拠点で、兵站や病院関連の兵が7千人、第4航空軍の拠点で7千人、別に海軍が千人いました。
アイタペには、陸軍の後方部隊2千名。
いずれ歩兵ではなく、あまり戦う事なく、すぐに後退して第2方面軍旗下の36師団のサルミ方面へ移動しました。

恐らくは、それ以前から計画されていたんじゃないかと推察しますが、ニューギニアの制空権奪回を目的として作られた第4航空軍が、第2方面軍配下となり、メナドに後退しました。
陸軍の兵たちは、これをニューギニアから逃げたと揶揄(やゆ)していたようですが、そんなこと言ったらかわいそうですね。
第4航空軍の何倍もの敵航空戦力と相対し、一方的に戦力損耗して全滅寸前でしたので、そろそろ後退して、補充、訓練、再編成する時期ではなかったかと思います。
しかしホーランジアには、多数のパイロット、基地関係者がいて、ホーランジア、アイタペ上陸に巻き込まれ、飛行機で後退する事も出来ず、徒歩で逃げました。

主力部隊が移動中で、やむを得なかったとは言え、ホーランジア、アイタペは18軍の担当戦域。
敵中後方に取り残された安達18軍司令官は、ホーランジア、アイタペ奪回の決意をしたそうです。

この時18軍は、長い縦隊で行軍中、マダンからウエワクまで舟艇で直送もしましたが、敵魚雷艇の跳梁で命がけ。
20師団長片桐中将は、舟艇移動中、敵魚雷艇にやられ戦死しました。
後任は、歩兵団長の中井少将。

安達18軍司令官から、ホーランジア、アイタペ奪回作戦の具申があると、第2方面軍は快諾。
第2方面軍から兵力抽出も補給もせず、単独で行う作戦で、成功したらもうけもの・・・と言う作戦でした。
第2方面軍では、旗下の36師団の戦域をサルミまでとして、それより東へ向けませんでしたので、事実上18軍は見捨てられていました。

この辺の微妙な事情から、ホーランジア、アイタペ奪回作戦を実施したのではないかと、越智は書いています。

ちなみにこの後、アメリカ軍はフィリピンを狙う動きとなり、インドネシアで決戦するつもりだった第2方面軍も、見捨てられた部隊となります。
第2方面軍配下だった第4航空軍は、航空決戦兵力としてフィリピンに後退します。
司令官も、8月には「東條英機の腰巾着」というあだ名の、航空部隊指揮は初めて、そもそも事務屋の富永恭次中将に代わります。
その前に、東條英機首相が失脚したため、厄介払いで前線に送られたのでした。
この敗勢、日本軍にそんな余裕がなかったとは思いますが。

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2015年3月25日 (水)

ニューギニア決戦記(5) / 越智春海


兵科記号について

文章の理解の一助にと、図を多用しています。
ニューギニア戦は、登場部隊数も多く、兵科(軍内で細分化された部隊の専門職)も多岐に渡ります。
図に部隊名を入れて行くのは煩雑で、またごちゃごちゃして見にくくなってしまいます。

軍隊では昔から、兵棋演習(図上演習)の際、兵科記号を用いていました。
現代では、軍の作戦を図示する場合、NATO軍の標準化された兵科記号を用いるのが一般的なので、以後これに倣い図示して行きます。

部隊規模に関しましては、前回の記述を参考に願います。

前回の記述は日本陸軍に関するもので、アメリカ軍、オーストラリア軍には以下の例外があります。

1.「師団」の上位組織は「軍団」、「軍団」の上位組織は「軍」
2.オーストラリア軍はイギリス式編成ですので、大隊の上位組織は「旅団」、「旅団」の上位組織が「師団」
3.アメリカ軍海兵部隊は部隊番号に「M」をつけています
4.可能な限り部隊番号をつけていますが、以下の場合部隊番号をつけていません
・独立部隊
・集成部隊(つまり寄せ集め部隊)
・部隊番号が不明
・独立部隊を除く、日本軍、アメリカ軍の大隊以下、オーストラリア軍は中隊以下
5.兵科記号で、機械化されているかされていないかの区別がつけられますが、煩雑になるので割愛しました
・日本軍は機械化されていません
・アメリカ軍、オーストラリア軍は機械化されています
6.騎兵部隊は、この時代には馬には乗っておらず、歩兵として戦いました
7.参考までにアメリカ軍の歩兵部隊の規模は以下の通りとなります
・師団 約15,000人
・連隊 約3千人
・大隊 836人
8.参考までにオーストラリア軍の歩兵部隊の規模は以下の通りとなります
・師団 13,000-18,000人
・旅団 約3,500人
・大隊 800-900人



第五章 ダンビール西岸の攻防

サラワケット越え

サラワケット越えのルート

9月6日、ポポイにも、ナザフ平原を占領され、退路を絶たれたラエ、サラモア地区の部隊は、敵部隊を避け、サラワケット山脈の道なきジャングルを越え、ニューギニア北中部に退却する命令を受けました。
そのため、退路のラエを確保しなければ、部隊は全滅です。
41師団の歩兵団長、庄下亮一少将がラエ地区にいて、部下は大部分ラエ、サラモア地区の草山陣地、手元には200名しかいませんでした。
この時ラエには他に、2千人の兵員がいましたが、大部分が後送を待つ傷病兵で、戦闘が出来るのは辛うじて300名。
これに、ラエに取り残された、舟艇部隊に銃を支給して、ラエ東西の要地に着陣させました。
中野師団長直ちに、庄下少将の部下、238連隊の一部と神野大隊(80連隊)をラエに派遣し、防衛強化しました。
これでも、せいぜいラエ防衛部隊は千名。

敵の攻撃は慎重で、10倍以上の兵力を要しながら、拠点を構築して少しずつ進出して来ました。
庄下少将のラエ防衛隊は、傷病兵まで銃を取り戦いましたが、敵が本気で攻めて来たら、守り切れなかったでしょうね。
本文にさらりと、海岸を守っていた海軍の第7根拠地隊数百名は、全滅と書かれています。
負け戦の退却行になると、人はエゴイストになります。
ブナ地区の撤退の時のように、敵中に取り残されたのでしょうか?
全滅したので、何も語る術はありません。

本文では後に書かれていますが、9月13日連合軍の航空部隊、戦爆連合(戦闘機と爆撃機の混成部隊)が来襲し、地上にあった航空機50機が破壊されました。
8月17日の時でさえ、壊滅的な損失だったと言うのに地上破壊とは・・・戦訓から何も学ばなかったのでしょうか?

9月14日には、ラエ、サラモア地区の全部隊、8.650名が、ラエに終結出来ました。
取り残された部隊のエピソードはありませんので、ここまでは損害を受けつつも、整然と退却出来たのでしょう。
改めてこの部隊編成を述べますと、51師団の残余(66、102、115連隊)、41師団の41歩兵団(238連隊基幹)残余、20師団の80連隊の神野大隊残余です。
部隊指揮官は、51師団の中野中将。
ここから、ラエ、サラモア地区の部隊は、千古未踏のサラワケット山脈の道なきジャングルを越え、キアリへ抜ける直線約100km、高低があるので実質500kmの退却行をします。

戦局ダンピールへ

サラモア地区からの撤退と連合軍の攻勢

この時点、次から次へと繰り出される、連合軍の攻撃に直接対応するため、18軍の配置は伸び伸びになっていました。
・ウエワク
 41師団(237、239連隊)
・サラワケット越えで行軍中
 51師団(66、102、115連隊)、41師団41歩兵団(238連隊基幹)、20師団80連隊神野大隊
・フィンシハーフェンに向け移動中
 20師団80連隊(神野大隊欠)+砲兵大隊、20師団79連隊
・フィンシハーフェン
 41師団41歩兵団の一部(238連隊基幹の1個大隊程度)
・51師団のサラワケット越え支援のためマーカム川左岸を進撃中
 20師団中井支隊(78連隊基幹)

9月19日、中井支隊が道なきジャングルを進撃中、カイビアットで、約1個師団のオーストラリア軍と遭遇しました。
この時、中井支隊にはオーストラリア軍の意図は分かっていませんでしたが、実はマダンに向け機動中だったのです。
中井支隊は、当初目的通り、51師団のサラワケット越えを容易にするため、この地点でオーストラリア軍を食い止めるべく、防御に付きました。

連合軍のアント岬上陸

9月22日、20師団主力が到着する前、オーストラリア軍9歩兵師団が、フィンシハーフェン北方のアント岬に上陸しました。
大本営、第8方面軍、18軍の虚を突いて、連合軍が戦線背後に上陸したため、現地軍の18軍では、フィンシハーフェン-マダン間の防御は、何もなされていませんでした。

フィンシハーフェンには、238連隊の1個大隊千名弱しか戦闘部隊は、ありませんでした。
またフィンシハーフェンの約4km南方に、80連隊の1個大隊がありました。
飛行場を守っていた238連隊の1個中隊(定数で200名前後)は、有効な陣地構築をしていた形跡はなく裸状態で、上陸したオーストラリア軍との隔絶した戦力差で、たちまち玉砕してしまいました。
他には山田少将が指揮する、第1船舶司令部があり、それまでラエ、サラモア地区の兵の増援、負傷兵の後送、細々と補給を実施していました。
海軍の81警備隊(戦闘部隊ではない)400名を含め、兵数4千名くらい、額面兵数でオーストラリア軍の1/3、実質1/10の兵力差でした。

この地区の上位指揮官、本来は戦闘部隊指揮官ではありませんが、山田少将のもと、陸軍はアント岬西方、サテルベルク高地に集結しました。
海軍は当初、オーストラリア軍と正面から対峙しましたが、少し抵抗して、陸軍に合流しました。
18軍から、上陸部隊への攻撃命令が届きましたが、私見では山田少将が本気で命令を実行しようとしていたように思えませんね。
あるいは、船舶部隊の少将閣下ですから、これまでは後方部隊で敵と対峙する経験などなく、腹もくくれず、混乱していたのかも知れませんが。

上陸部隊は、一般的には、上陸直後が最も脆弱で、その間に攻撃すれば、海に追い落とすチャンスがあります。
しかしアメリカ軍は、敵の反撃を封じるため、制空権、制海権を活かし、艦砲射撃や航空隊の支援によって、敵の反撃を防ぐ体制を取っています。
上陸部隊が、防御線を構築し、橋頭堡を築いた後は、海に追い落とすためには、敵に倍する兵力と、かなりの損害を覚悟しなければなりません。
つまりは当時の日本軍にとって、実質実現不可能な事です。

山田少将が、反撃開始したのは、上陸から5日も経った9月27日です。
反撃の主力部隊の1つ、80連隊の合流は遅れたものの、それでも9月24日には、山田少将に合流出来たのに・・・です。
本書では、どのような反撃を実施したのか書かれていません。
もしかすると命令のため形式だけ反撃した可能性もありますが、その後サテルベルク高地を守るのが精一杯となります。

20師団主力が、道なきジャングルを行軍して、フィンシハーフェンに向かっていましたが、18軍としては、フィンシハーフェン奪回を厳命します。

戦争指導方針の変遷

当時の大本営、第8方面軍の判断としては、ソロモン諸島方面は前線に4~5個師団、後方に8個師団、ニューギニア方面は前線に3個師団、後方に2~5個師団と推定していました。
敵航空戦力は、ソロモン諸島方面600機、ニューギニア方面700機と推定していました。
対する18軍は額面戦力3個師団、その内3個師団とも傷付き、実質2個師団あるかないか。
海軍航空隊は、ニューギニア方面に派兵する余裕なく、陸軍航空隊が多い時で70機程度しかありませんでした。
越智春海はこの情報に、これだけ我彼の戦力が隔絶して、どうして連合軍の反攻を想定していなかったか、嘆きます。
常識的に考えて、日本軍に数倍する戦力を、連合軍が無駄に遊ばせておくのは、考えられない事です。

日本軍は、ノモンハン事件で、ガダルカナルで、ニューギニアで、この後ビルマで、フィリピンで、敵情を無視し、自分の都合の良いように願望で敵情を判定しました。
つまりは、脳がチョコレートなのか?と思うほど、敵情判断が甘かったのです。
この内、フィリピン以外は、辻政信が関わっているのは、興味深いところです。
敵は、こちらの都合の良いように待ってくれるはずもなく、常に願望は覆され、日本軍の想定外の最悪の事態が引き起こされました。
上級司令部の誤着は多く、それは前線の兵士の血で贖(あがな)えさせられたのです。

9月30日、大本営から第3段の戦争指導方針が発表されました。
「帝国陸海軍は密に協同し、南東方面の要害に於て、来攻する敵を撃破して極力持久を策し、この間すみやかに豪北方面より中部太平洋方面要域にわたり、反撃作戦の支撐(しとう)を完成し、かつ反撃戦力を整え、来攻する敵に対し徹底的反撃を加え、つとめて事前に之を覆滅し、その戦意を挫折しむる」

絶対国防圏と前衛防衛線

日本語が難しいですが、つまり陸軍は、ラバウルを前衛防衛線と見なし、ニューギニア戦線も前衛防衛線に格下げ、後方に絶対国防圏の防衛線を築くと言う事です。
この方針を受けた第8方面軍のカバーする戦域は、全て前衛防衛線となり、「極力持久を策し」の一文から、敵が攻めて来たら、最後の一兵まで死守せよと読める訳です。
第8方面軍の今村司令官は、この方針を受け、以下の方針を18軍に下達しました。
「各兵間、各部隊の後退は絶対に認めず、占拠地で必死敢闘、敵に打撃を与え、重深的総合戦果により全般的持久任務を達成せんとす」
今村司令官の考えでは、この時点では、中部太平洋に連合軍が抜けないよう、フィンシハーフェンとラバウル島は、死守するつもりだったのです。

かなり強い口調で、現在の戦場で、死ぬまで戦えと言っているようですが、そこは軍隊、そんな事をしても意味はありません。
もちろん退却と言う言葉は日本軍にはありませんが、部隊が緊急事態に陥った時、転進と言う都合の良い言葉があります。
戦線後方に、転進を命じれば良いのでした。

フィンシハーフェン攻撃に失敗し、攻撃発起地点のサテルベルク高地に戻り、守勢に回った山田少将以下、4千名の将兵は、海岸はオーストラリア軍に取られ、内陸地なので補給もなく、食糧確保のため夜間出撃(イモ掘り出撃)に出ざるを得ませんでした。
フィンシハーフェンは補給基地な訳で、もともと食料、弾薬とも、集積されていたはず。
戦史叢書には、何も書かれていないようですが、越智春海は行間を読み、上陸部隊にやすやすと奪取されたと、見抜いています。

フィンシハーフェンの死闘

10月10日、フィンシハーフェン攻略を厳命され、19梯団に分かれ、道なきジャングルを行軍して来た、片桐師団長率いる20師団主力の先陣が、ソング川方面に到着しました。
片桐師団長は、もしかすると旧日本陸軍初の、上陸した部隊の海岸に、こちらも上陸作戦を行う、逆上陸と言う作戦を立てます。
この作戦発案について、越智春海は、片桐師団長の発想力をほめています。
しかしそもそも、上陸したオーストラリア軍の方が、倍以上の兵数優勢なのに、陸上攻撃部隊と、逆上陸部隊に、部隊を2分するのが、果たして現実的な作戦だったのでしょうか?

フィンシハーフェンで、船舶の多くを失った事もあるでしょうし、また20師団主力と言っても、額面では79、80の部隊欠員のある2個連隊の兵力でしたの。
逆上陸部隊に当てたのは、わずか1個中隊(184名)。
10月16日深夜に、この1個中隊が、オーストラリア軍の背後、アント岬に逆上陸しました。
本書には書かれていませんが、実は日本軍将校が作戦計画を失くし、それが連合軍に渡っていたため、実は連合軍は逆上陸撃退のため海岸で待ち構えていました。
オーストラリア軍の記録では、逆上陸した部隊の一部が勇戦して、旅団司令部に突入して、一時海岸が大混乱となった事を伝えています。
しょせん1個中隊では、いかんともし難く、生存者7名ですので、旅団司令部に突入した殊勲の部隊についても、何も伝わっていません。

本来なら、逆上陸に呼応して、陸上攻撃を実施するのが、作戦の常道と思われますが、奇妙にも79、80の両連隊は、攻撃に間に合いませんでした。
想像するに、攻撃準備に必要な時間を無視して、攻撃命令が拙速に発せられたのではないでしょうか?
逆上陸が、戦術上画期的なものだったとしても、奇襲効果を活かせず、さらに逆上陸部隊は事実上見殺しになりました。
逆上陸に1日遅れの10月17日深夜、79、80の両連隊が、カテカ攻撃に成功して、さらに戦果拡大に努めましたが、攻撃は行き詰まりました。
10月19日には、20師団の力が衰え事実上攻撃停止、そして翌日にはオーストラリア軍の反撃を受け、さらに20師団主力の背後にも上陸しました。

本書には書かれていませんが、この時オーストラリア26旅団と、マチルダ戦車1個中隊が来ました。

マチルダ戦車

ジャングル内で、我彼入り乱れる乱戦になり、孤立した20師団は、急速に損害が増えて行きました。
攻撃中止命令は、遅れる事10月25日に発せられ、20師団の残余は、攻撃地点からサテルベルク高地に転進しました。
この時の20師団将兵は、食料もなく、やせ衰え幽鬼のようだったそうです。

10月20日頃、中野師団長が指揮するラエ、サラモア地区の部隊は、途中食料もなく、悲惨な退却行をして、ニューギニア北岸のキアリには3/4の6,450名がたどり着けました。
しかし戦闘任務に就ける兵は、2千名そこそこ。
残る4千名強の傷病兵は、本来なら後送、休養させるのですが、この時の戦況は、風雲急を告げていました。

安達二十三第十八軍司令官

軍隊では、将軍手前の大佐ですら、兵士から見ると神様のような雲の上の存在に思えたそうですから、ましてや将軍になるなど、ごく一握りのエリートのみです。
ただでさえ旧日本軍は、兵士と将校の扱いに大きな差別がありましたが、それが将来将軍になろうかと言う人なら出世も全然違い、一般将校とはとんでもない格差がありました。
しかし日本の将帥は、とかく督戦だけして、後方で安寧としている人がいました。

ビルマ決戦記でも書きましたが、エリート中のエリート、ビルマ方面軍司令官、木村兵太郎中将が、ビルマで身の危険を感じると(実はそんなに危険じゃなかった)、兵を置いて敵前逃亡しました。
木村兵太郎中将と共に、当時首相で参謀本部長だった東条英機大将の腹心で、大本営で権勢を振るった富永恭次中将は、東条英機大将失脚後、前線に追いやられます。
フィリピン戦の航空部隊を統括する立場、第4航空軍司令官です。
「自分も後から逝く」と、配下の部隊に特攻を強要し、部隊が通常攻撃で戦闘させて欲しいと言うと、「命が惜しいのか?」と面罵しました。
特攻は、現在ではほとんど戦果がなかった事が分かっています。
無為に、配下の航空部隊を潰して全滅状態にして、いざマニラにアメリカ軍が迫ると、部下を置いて台湾に逃亡しました。

しかし安達二十三第18軍司令官は、アメリカ軍の制海権下を命をかけて、最前線に何度も足を運びました。
この時も危険を冒し、キアリに、フィンシハーフェンに足を運びました。

越智春海は、18軍の主力部隊、20師団に、何故のんびり道路作りなどさせたのか、非難します。
道路造りより先に、戦略拠点に部隊を配置するのが先ではなかったか・・・と。

越智春海の言う事は正論ですが、後知恵の感がないではありません。
兵力は多くとも、士気、装備に劣る中国軍を、弱いものいじめのように追い散らしていた日本軍が、太平洋で初めて、本格的近代軍隊と戦闘をしたのです。
当時、ほとんどの日本陸軍将校は、装備がはるかに勝り、物量、鉄量、補給力が日本軍とは桁違いのアメリカ軍との戦闘を、想像もしていなかったはずです。

第二十師団の死闘

フィンシハーフェンの日本軍が強大で、戦意旺盛なので、放置しておけないと思ったか、攻撃準備を始めました。
20師団は、攻撃準備に気が付かなかったそうです。
11月16日、連合軍が、20師団の占拠するサテルベルク高地に、猛砲撃、猛爆撃を加えて来ました。
この章で、30トン戦車と言う記述が出て来ますが、これが前述のマチルダなのか、米軍から供与された可能性があるM3中戦車なのかM4中戦車なのか分かりません。
ちなみにヨーロッパでは並みの戦車だったM4シャーマンは、対戦車力に劣る日本軍には重戦車と呼ばれ、なかなか破壊出来ないので、忌み嫌われていました。
マチルダは、M4シャーマンと同じくらいの装甲ですので、同じく破壊するのは困難だったでしょう。

アメリカM3中戦車

アメリカM4中戦車

11月22日、20師団は予定していた攻撃を繰り上げ、サテルベルク高地から出て逆襲します。

日本軍では攻撃偏重で、じっと耐えて防御するのは卑怯と、軽んじられました。
この時、連合軍と日本軍では、戦力に隔絶の差があり、攻撃するなど自殺行為ではなかったかと思います。
日本軍の防御戦闘は頑強で、アメリカ軍は固く守った日本軍陣地の攻撃を、死傷者が多く出るので嫌いました。
それなのに日本軍は陣地を抜け出して、生身の体をアメリカ軍の銃前にさらしたのです。

第4航空軍の残余も、11月23日に35機、同月26日に47機支援に来ましたが、焼け石に水だったでしょう。
ニューギニア西部諸島、豪北地区に第2方面軍が編成され、支援のため、なけなしの7飛行師団を転出する事になっていました。
豪北地区も最前線には違いありませんでしたが、ウエワク地区に比べれば平穏でした。
作者の越智は、航空部隊の使用法を批難していますが、自分は反対意見です。

軍隊は定数で最も力を発揮するよう、編成されています。
航空部隊は特に、数が減ると、加速度的に戦力が低下します。
旧日本軍の航空部隊も例外ではなく、戦闘で損耗した部隊は後方に下げ、補充して再編成し、訓練をして再び前線に赴くのが常道です。

優秀な航空部隊は一朝一夕に出来るものではなく、パイロット1人養成するのに、かなりのコストがかかります。
それが戦闘に何度も投入すれば、いとも簡単に損耗(つまり多くが戦死)してしまいます。
損耗する事で戦力低下し、余計に戦闘で損耗しやすくなります。
養成に時間のかかる航空部隊は、少しアタマのある上級司令部なら、あたら損耗で無意味に潰したくないと考えるでしょう。

旧日本陸軍では、歩兵は補充もなく、戦力を損耗しながら戦い続ける事が多かったですが、このような部隊は本来の戦力を発揮出来なかったはずです。
作者の越智が、戦力化に時間がかからない歩兵と航空を同じレベルので考えるのは、いかがなものでしょうか?
航空音痴と言わざるを得ません。

第4航空軍では、第2方面軍支援の名目で、損耗した旗下部隊を豪北地区に下げ、補充と再訓練して、ウエワク地区に再投入していたように思います。

20師団のフィンシハーフェン退却

20師団は勇戦したようですが、日本軍側の主観であって、米軍側がどう捉えていたか不明です。
前述の通り、堅固な陣前から飛び出し、飛んで火にいる夏の虫だったかも知れません。
攻撃開始から4日後の11月26日には、20師団の攻撃が行き詰まり、また逆襲して来た米軍に包囲され、全滅しそうな情勢でした。
攻撃を諦め、サテルベルグ高原の防衛をして、大損害を受けていた80連隊(三宅大佐)を前線から下げました。
そのため翌27日には、79連隊(林田少将)に攻撃の矛先が向き、粉戦状態となり、包囲される懸念がありましたが、27日夕刻には無事戦線離脱出来ました。
28日には20師団が、ワレオ、ノンガカコの線に再集結しました。
以後、この線を20日間に渡り、血みどろの防衛をしました。

上位司令部の第8方面軍が、死守の方針だったため、18軍で後退命令を出すわけにも行かず、大損害を被った20師団もフィンシハーフェンから後退する事は出来ませんでした。
これはつまり、ただでさえ戦力低下した20師団が、日々戦闘により損耗して行くと言う事です。
旧日本陸軍では、このような無駄な戦闘による戦死が頻繁だったのです。

ニューギニアのフォン半島の情勢

同じ頃、フィンシハーフェン西方400kmのフィニステル山脈で、20師団の78連隊(中井少将)が、マダンへ向かって攻撃して来たオーストラリア軍第7師団を防いでいました。
中井支隊が崩れると、20師団は後方連絡線上にある、マダンを取られてしまいます。
10月にオーストラリア7師団は力攻し、中井支隊は無理せず後退しながら敵を防ぎました。
フィニステル山脈西端の歓喜嶺付近が、中井支隊の最終防衛線で、一時粉戦状態になりましたが、12月には戦線を安定させました。

中井支隊長は、敵が活発化して攻勢が近い事を感じ、ウエワクから前線へ急行中だった41師団239連隊と共に、機制を制して攻撃しました。
オーストラリア軍には意外な攻撃だったようで、壊乱して退却して、以後1ヶ月くらい反撃さえしなくなったそうです。
中井支隊長は後に、片桐師団長戦死後、20師団長になりますが、ニューギニア戦の期間中、唯一連合軍におくれを取らなかった優秀な将帥です。

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2015年3月22日 (日)

ニューギニア決戦記(4) / 越智春海


兵科記号について

文章の理解の一助にと、図を多用しています。
ニューギニア戦は、登場部隊数も多く、兵科(軍内で細分化された部隊の専門職)も多岐に渡ります。
図に部隊名を入れて行くのは煩雑で、またごちゃごちゃして見にくくなってしまいます。

軍隊では昔から、兵棋演習(図上演習)の際、兵科記号を用いていました。
現代では、軍の作戦を図示する場合、NATO軍の標準化された兵科記号を用いるのが一般的なので、以後これに倣い図示して行きます。

部隊規模に関しましては、前回の記述を参考に願います。

前回の記述は日本陸軍に関するもので、アメリカ軍、オーストラリア軍には以下の例外があります。

1.「師団」の上位組織は「軍団」、「軍団」の上位組織は「軍」
2.オーストラリア軍はイギリス式編成ですので、大隊の上位組織は「旅団」、「旅団」の上位組織が「師団」
3.アメリカ軍海兵部隊は部隊番号に「M」をつけています
4.可能な限り部隊番号をつけていますが、以下の場合部隊番号をつけていません
・独立部隊
・集成部隊(つまり寄せ集め部隊)
・部隊番号が不明
・独立部隊を除く、日本軍、アメリカ軍の大隊以下、オーストラリア軍は中隊以下
5.兵科記号で、機械化されているかされていないかの区別がつけられますが、煩雑になるので割愛しました
・日本軍は機械化されていません
・アメリカ軍、オーストラリア軍は機械化されています
6.騎兵部隊は、この時代には馬には乗っておらず、歩兵として戦いました
7.参考までにアメリカ軍の歩兵部隊の規模は以下の通りとなります
・師団 約15,000人
・連隊 約3千人
・大隊 836人
8.参考までにオーストラリア軍の歩兵部隊の規模は以下の通りとなります
・師団 13,000-18,000人
・旅団 約3,500人
・大隊 800-900人



第四章 ラエ・サラモアの危機

岡部支隊のワウ攻撃

ブナ守備隊/南海支隊のブナ地区退却

ブナ地区の撤退に先立つ、1943年1月7日、ブナ地区の後方、ラエに、51師団の岡部支隊が上陸しました。
輸送船で運ばれて来る途中、連合軍の空襲に遭い、定数の2/3しかラエに到着出来ませんでした。
2個中隊は、クムシ河口まで進出して守りに付き、悲惨な撤退をして来た南海支隊、21旅団を収容しました。

岡部支隊のワウ攻撃

航空偵察で、サラモア南方のワウに新飛行場を建設している事が分かり、岡部支隊主力、残余2個大隊(推定2千名)が1943年1月14日、ワウ攻略に向かいました。
敵の空襲を避けるため、プロロ川渓谷を直進する最短ルートを選ばず、ジャングルを切り開き、迂回するルートを選択したため、ワウに近接するまで10日以上かかりました。
当時、連合軍の原住民スパイが、日本軍の施設に紛れていたらしく、岡部支隊主力がワウに接近する前に、連合軍に気付かれました。
岡部支隊がワウに攻撃する直前まで、天候不順で、ワウには少数の部隊しかいませんでしたが、岡部支隊が攻撃開始した30日までには天候も回復し、増援も到着したため大反撃を食いました。
すぐに守勢に回り、後退して設定した防衛線も崩壊寸前となり、2月14日に18軍の後退命令が出て、崩れるように後退しました。

後世、プロロ川渓谷を直進すれば、ワウは攻略出来たと言われていますが、それは焼け石に水の戦果に過ぎなかったでしょう。
ワウまでの補給路を設定する事は、思いもよらない事で、またワウはブナ地区の制空権下で、維持する事は不可能だったでしょう。

ニューギニア北岸の最前線は、マンバレーでしたが、ワウ攻略につまずいた事から、後退してサラモアを最前線としました。
ブナ地区から後退して来た、南海支隊、21旅団の残余の傷病兵も、ラエ、サラモア地区に後退、ラバウルからの船、飛行機に乗って段階的に後退して行きました。

第十八軍の態勢

一木支隊、川口支隊、2師団、38師団と、戦力の逐次投入、壊滅を繰り返していたガダルカナル島は、1942年12月31日の御前会議で撤退と決定。
それにともない大本営では、ソロモン諸島が主作戦で、ニューギニアは支作戦だったのが、ソロモン諸島支作戦で、ニューギニアを主作戦と変更しました。
ガダルカナルに投入予定で、当初17軍編入を発令していた20師団を、18軍に編入発令しました。
さらに当初からの予定通り、41師団も18軍に編入し、ラバウルに送られ、駐屯していた51師団も18軍に編入されました。

著者の越智春海は、5師団の将校として、東ニューギニア戦のこの頃まで、ウエワク、マダン付近にいました。
5師団は運の良い事に、20師団、41師団と入れ替わりに、平穏なモルッカ諸島に転進して、終戦を迎えました。

越智春海は、この3個師団の18軍編入で、大本営はニューギニアの戦勢挽回を期待していたと書いています。
ニューギニアは、日本の本州の3倍の面積で、守るべき海岸の長さは、ウエワクからサラモアまででも推定千km以上。
そこに3個師団、定数で約7万5千の部隊。
定数の1個師団の守備正面は、標準6kmと言われています。
あくまでも単純計算では、千kmで166個師団必要となります。
大本営はその部隊に、防御はおろか、攻撃してアメリカ軍を撃退する事を期待してたのです。

日本より広大なニューギニアをたった3個師団で防衛しようとするのが、そもそも無理。
制空権、制海権を奪われているのに、なおニューギニアに固執したのは、現地で戦う将兵の悲劇でした。

ニューギニアへの増援

とりあえず41師団、20師団をウエワクへ、ラバウルの51師団は、最前線のラエ、サラモアに送る事になりました。
ウエワクからラエ、サラモアまで、海岸伝いに1000km以上。
当時のニューギニアは、この間の道路インフラなどなく、未開のジャングルが横たわるのみでした。
陸上の補給など、望むべくもなく、海上補給もこの当時、ダンビール海峡以西は、連合軍の制空権下で、大本営の設定したラエ、サラモア地区にたどり着くのさえ奇跡のような状況でした。

41師団はウエワクに駐屯、20師団は当初はウエワク、後にマダンに駐屯しましたが、ウエワクからマダンまでの400kmの間にも、ジャングルしかなく、舟艇部隊で海岸伝いに運ばなければなりませんでした。
この態勢でこの2個師団が、最前線のラエ、サラモア地区に影響を与える事はありません。

この方面の航空作戦については、本書では軽くしか書いていませんので補足します。
当初、海軍からの要請で、ソロモン諸島、そしてニューギニアに引っ張り出された陸軍は、陸軍の航空部隊はこの地になく、海軍の航空部隊が頼みの綱でした。
その海軍の航空部隊は、相次ぐ激戦で壊滅する部隊が続出。
開戦時に多数いたベテラン搭乗員の多数を失い、再建してラバウルに進出して来た時には練度が低く、戦力が減じる結果となりました。

1942年4月上旬に、ソロモン方面での陸海軍協力の御下問を機に、この方面に陸軍航空部隊を派遣せざるを得なくなりました。
当初1942年7月に、偵察機隊の第81戦隊の1個中隊を送り込み、9月にも偵察機隊の独立飛行76中隊を派遣しました。

さすがにこれではマスかろうと、1942年11月、6飛行師団を編成しました。
1942年11月には歴戦の精鋭戦闘機隊、一式戦闘機(隼)装備の11戦隊、1月には第1戦隊をラバウルに派遣しました。
2式複座戦闘機(屠龍)装備の45戦隊、軽爆撃機装備の208戦隊を1942年11月にブーツに派遣しました。
1943年3月も、97式重爆撃機装備の15戦隊をラバウルに派遣しました。
正式採用したばかりの3式戦闘機(飛燕)を装備した68戦隊、78戦隊が満州で開隊して、ニューギニアに派遣される事になりました。
6月に68戦隊がウエワク着、6月末に78戦隊がウエワク着しました。

魔のダンビール海峡

81号作戦

最前線のラエ、サラモア地区に、51師団の岡部支隊のみ送り込みましたが、51師団主力はラバウルのまま。
ラバウルから、輸送船でダンビール海峡を越え、ラエ、サラモア地区に51師団主力を送り込むべく、計画されたのが「81号作戦」です。
「81号作戦」の半分の規模で、岡部支隊を送り込んだ時でさえ、連合軍爆撃機に襲撃されて、1/3を失いました。
時が経ち、状況はさらに悪化していて、海軍は「81号作戦」に猛烈に反対しましたが、最終的には起案した陸軍の「81号作戦」に折れました。
この時、「81号作戦」の船団護衛に駆出された海軍、陸軍戦闘機、ニューギニア、ソロモン諸島方面の全機数、合計約200機。
日本軍からすれば、前例のない大規模護衛戦闘機ですが、いっぺんに200機が上空で護衛する訳ではありません。
200機とは大した事なく、時間割に区切ると、最大24機程度が、船団の上空援護するのが精一杯です。
船団の上空援護した、海軍の戦闘機乗りの手記に、無謀な作戦と書かれていた記憶があります。

当時の陸軍は、ニューギニア方面の敵航空戦力を200機と推定していますが、その根拠は怪しいものです。
今日では、倍の400機くらい航空機があった事が判明しており、さらにソロモン諸島方面に500機弱、それも日に日に増加の一途でした。
我彼戦力拮抗と根拠なく断定し、それを前提に作戦を起案したように思います。
冷静に考えれば、反対する海軍の方が正論で、「81号作戦」は自ら死地に赴くようなものです。
陸軍中央(特に大本営作戦課のエリート)が信じられない事に、海上輸送や、航空作戦に音痴だった事が伺えます。

51師団は決死の覚悟で、8隻の輸送船に、たとえ輸送船が1隻沈んでも、大きな戦力低下を招かないよう、7千名弱を各輸送船均等に分乗して、出発しました。
輸送船団には、18軍司令官、安達中将も乗り込みました。
8隻の駆逐艦が護衛し、この時の駆逐艦隊司令は、後にキスカ撤退作戦を見事成功させた、名将木村昌福少将。
1943年3月1日、船団はラバウルを出港しましたが、その日の昼には、連合軍偵察機に発見されました。
3月2日には、連合軍のB17約10機に攻撃され、輸送船1隻沈没して、波に浮かぶ兵士を駆逐艦が救援し、そのまま高速でラエに急行して上陸させました。
船足の遅い輸送船団は、そのままラエに向かいましたが、3月3日に連合軍爆撃機約80機、戦闘機約40機に襲われ、日本軍の護衛戦闘機は、連合軍戦闘機と戦うのが精一杯の状態。
残り7隻の輸送船は全て沈没、さらに護衛駆逐艦4隻沈没。

残りの駆逐艦は、波に浮かぶ将兵を救助して、ラバウルに帰還しました。
ラエに送り込めた将兵約800名、ラバウルに帰還できた兵、約2400名。
ニューギニア決戦に期待された51師団は、敵と戦わずして、兵数半分以下、あえなく挫折しました。

後のキスカ撤退作戦成功で、日本軍最高の名将とアメリカ軍に激賞された木村少将でも、雲霞の如き一方的航空攻撃には、なす術もなかったでしょう。
この時連合軍は、スキップ・ボミング(反跳爆撃)と言う戦術で、輸送船団を攻撃しました。
ここでは、詳細は語りません。興味があれば、調べてみて下さい。

難航する道路工事

この結果に、大本営があわてて作成した「南東方面作戦陸軍海軍中央協定」には、依然ラエ、サラモア地区が主戦場と書かれています。
これを受けて作成した、現地の陸海軍協定も、従来の作戦方針のまま。
壊滅と言って良い損害を受けた51師団の残余は、舟艇でフィンシハーヘンまで渡して、その後道なき海岸を徒歩で、ラエに向かいました。

ラエ、サラモア地区へ補給を送る事は、事実上不可能となり、もはや敵制空権が及ばないマダンに陸揚げして、陸軍の船舶部隊が海岸沿いに細々輸送するか、深夜に高速駆逐艦で細々補給するネズミ輸送しか、手はなくなっていました。
18軍では、ニューギニアの41師団、20師団に、ラエ、サラモア地区の支援をするべく、20師団がマダンから道路をラエ、サラモア地区への道路工事を始めました。
ブルドーザーを使い、短時間で飛行場や道路を作るアメリカ軍と違い、日本軍にはブルドーザーと言う発想はなく(当時ブルドーザーがなかった)、スコップ、ツルハシで掘り返し、土木運搬一輪を使った人力で工事していましたので、道路工事は遅々として進みませんでした。
道路の完成前に、連合軍の反攻が予想され、ラエ、サラモア地区の兵員増援のため、20師団から抽出した1個大隊を、舟艇で海岸伝いにラエ、サラモア地区に送りました。

また、輸送は最前線への輸送を優先したため、41師団、20師団の輸送は後回しになりました。
1943春時点で41師団、20師団の兵力の半数もニューギニアに届いていない状況でした。
41師団、20師団とも、この輸送遅延のため、結局まともな兵力で戦った事は、一度もありませんでした。
ガダルカナル戦と、これまでのニューギニア戦で、日本の輸送船団は大打撃を受けており、日本国内で必要な物資の補給ですら、ままならなかったのです。

中野師団長の出撃

1943年4月に、中部ニューギニア内陸部、ムグロ、ベナベナ、カイナンツ近辺に、オーストラリア軍が飛行場を建設している事が判明しました。
これまでニューギニアの補給基地として、ウエワク、マダンに物資を陸揚げしていましたが、飛行場が完成すると、ウエワク、マダンも連合軍の制空権下となります。
18軍では、連合軍の新飛行場への攻撃を意見具申しましたが、大本営は意見を認めたものの、従来の任務、兵力配置はそのままで、飛行場への攻撃を追加しただけでした。

この地で、一大航空決戦をするべく、6月に第7飛行師団・・・100式司偵装備の10戦隊、一式戦闘機(隼)装備の24戦隊、59戦隊、2式複座戦闘機(屠龍)装備の13戦隊、99式双発軽爆撃機装備の208戦隊がニューギニアに送り込まれました。
陸軍の航空部隊増強を受けて7月28日、第4航空軍が新設されました。

1943年6月には、ラエ、サラモア地区の連合軍の動きが活発になり、いよいよ連合軍の攻撃間近と、感じられました。
51師団の中野師団長は6月20日、正面のムボ、ウェバリにいる敵に、敵の攻勢の機制を制して、66連隊を主力に攻撃を仕掛けました。
この攻撃には、新たにウエワクに到着した、白城子教導飛行団の爆撃機も支援しました。
しかし、連合軍の陣地は縦深で、地雷、ピアノ線、鉄条網、鹿砦(ろくさい)を配置して、探知機も無数にあり、探知機に反応すると、たちまち銃弾、砲弾が雨のように降って来ました。
一度は、攻撃頓挫しましたが、翌日損害を省みず攻撃再開して、第2線陣地まで奪取しましたが、力尽き全滅寸前となりました。
中野師団長は、退却を命じ、以後66連隊は、戦力を失いました。

当時の日本陸軍では、陣に堅く守って、敵を迎え撃ち、損害を与えると言う、当然の戦法は評価されず、積極性がないと罷免される可能性が高かったほどでした。
むしろ無茶でも、敵に攻撃を加える指揮官の方が、積極的だと高く評価される傾向にありました。
多くの戦場で、優勢な敵に意味のない攻撃を加えて損耗し、守勢に回った時には戦力不足。
攻撃で損害を受け、防御時に優勢な敵に損害を受けると言う、2重に損害を受ける羽目になりました。

それなのに、上位司令部への戦闘詳報では根拠なく、常に日本軍が敵に自軍の損害より大損害を与えたが、寡兵(つまり味方の兵が少ない)でままならず、作成遂行出来なかったと報告しています。
これが日本側からの太平洋戦争の戦記で誤って書かれる、アメリカ軍の鉄量に日本軍の肉弾で勇戦するが、物量に敗れるというイメージの植え付けです。
現実にはこんな展開は、めったに起こりませんでした。
戦闘詳報は、自軍がこれだけ損害を受けているのだから、敵軍はそれ以上の損害を受けているだろうと言う、根拠のない希望的な判断であって、現実には日本軍の一方的な下手な戦で、連合軍の損害は日本軍の1/10程度でした。

この辺が、日本軍の兵、下士官は優秀だが、指揮官はワンパターンで、質が低いとアメリカ軍に評価されるゆえんです。
ちなみに、陣によって固く守った時には、硫黄島や沖縄で、アメリカ軍に物凄い損害を与えています。

連合軍の第二期攻勢

連合軍の第二期攻勢

6月30日、アメリカ軍が、ナッソー湾上陸、またソロモン諸島でレンドバ島上陸を行いました。
また、ソロモン諸島とニューギニアの中間にある、キリウィナ島、ウッドラーク島にも上陸しましたが、日本側は気付きませんでした。

本書には載っていませんが、海軍戦闘機隊が先行して制空をして、陸軍第6飛行師団では、ラバウル西飛行場より14戦隊重爆18機、1戦隊、68戦隊の戦闘機23機で出発し、レンドバ島爆撃を実施しました。
この程度の機数では、大した損害は与えられません。
陸軍第6飛行師団は続けて、ナッソー湾攻撃もしましたが、ことらも大した戦果は挙げられませんでした。

戦力を損耗した51師団は、ナッソー湾、ムボ、ボブダビの敵、全てに対応する事は出来ず、わずかに室谷少将の指揮する歩兵団が、ボブダビに反撃を加えられるのみでした。
それも、主力部隊の1つは、舟艇で到着したばかりの20師団の1個大隊である、神野大隊。
白兵戦で、攻撃して来たオーストラリア軍を撃退し、ボブダビの陣に付きました。
現地を視察した18軍の安達中将は、51師団の戦力損耗(定数の1/3)を見て取り、41師団の歩兵団司令部を、舟艇でラエに進出を命じました。

かねてから、ラエ、サラモア地区が最前線となる想定をしていましたが、先にブナ地区から退却してきた栄養失調の傷病兵を後送するのに手一杯で、陣地構築が後回しになっていました。
しかし連合軍が遠からず攻めて来るのは、分かっていた筈で、準備不十分のそしりを免れませんね。

サラモア戦

陣地の最南端、ムボに、51師団の主力、攻撃で損耗した66連隊が着陣していましたが、オーストラリア軍の無制限とも言える猛砲撃、猛爆撃を受け、さらにムボ陣地後方に浸透して来ました。
対する、66連隊は、各砲で1日10発、機関銃は弾の浪費が激しいので、連射禁止のひもじさでした。
これも、弱体化した51師団に、ラエ、サラモア地区の陣地線が長過ぎた訳で、返す返すも不必要な66連隊のムボ、ウェバリ攻撃が、悔やまれます。
7月11日、中野師団長は、やむなくムボ陣地から66連隊を後退させ、カミアタム高地に布陣させました。
これで、当初構想通り、戦線を縮小してボブダビ、カミアタム、ボイシを結ぶ馬蹄型陣地を構成しましたが、これでもなお陣地を守るに兵力不足でした。
しかも陣地構築が放置されていて、慌てて工兵を投入して、陣地構築を始めました。

敵制空権、制海権下で、舟艇による細々とした補給だけが頼りで、着陣した部隊にはとうてい行き渡りませんでした。
そんな悪条件下、兵は勇敢に防戦して、敵の侵入を防ぎました。

この頃から、大本営では、次期国防線を検討して、ラエ、サラモア地区は前衛地区に格下げ、西部ニューギニアを新たな国防線にするよう検討を始めました。
新設した第4航空軍の支援の元、6月に判明したムグロ、ベナベナ、カイナンツの敵飛行場を攻撃し、ウエワク、ハンサ防衛を安泰にする方針を検討し始めました。

飛行場攻撃計画

8月3日、18軍の安達中将は、補給も満足になく、苛烈な戦闘を続けるラエ、サラモア地区の戦況を見て、ムグロ、ベナベナ、カイナンツの攻撃は中断して、フィンシハーフェン地区の確保が第一と報告しました。
8月10日には、20師団の一部、80連隊に1個大隊をつけ、フィンシハーフェン進出を命じます。
これはその時点での作戦方針と大きく異なり、大本営、上位組織の第8方面軍が容認できる事ではありません。
ムグロ、ベナベナ、カイナンツの攻撃のために、18軍に兵力増強して来たからです。

7月下旬には、ムグロ、ベナベナ、カイナンツ飛行場攻撃の任務を想定した、7飛行師団がウエワクに到着しました。
6飛行師団と7飛行師団を合わせると、事実上当時の陸軍航空の約半分の兵力となり、最前線のウエワクに集結させ、後は大本営の命令下、敵を撃滅すると意気盛んだったのです。

8月16日、ウエワクの戦闘機部隊が、カイナンツの飛行場攻撃に向かいましたが、優勢な連合軍戦闘機と戦闘となり、目的を果たせませんでした。
8月17日、連合軍は戦爆連合(戦闘機と爆撃機の混成部隊)でウエワクとブーツに来襲して、飛行機が地上で100機以上の損害を受ける大惨事が起こりました。
ウエワクは、最前線の航空基地で、ムグロ、ベナベナ、カイナンツの敵飛行場からの攻撃圏内にあったにも関わらず、これまで攻撃される事はありませんでした。
増援された、7飛行師団の多くは、航空戦の平穏なジャワ島やチモール方面から来たので、航空偽装、分散配置に無関心だったのでは、と考えられます。
しかし数ヶ月戦闘している6飛行師団も、敵から攻撃されない事を良い事に、航空偽装、分散配置していなかったんだろうと思われます。
8月6日に着任したばかりとは言え、第4航空軍の司令官、寺本熊市中将は、航空戦の専門家なのに、この失態はどうした事でしょうか?

翌日も航空攻撃され、日本の飛行機生産力では、一気に100機も損失すると、補充は難しかったのです。
以後第4航空軍は、最大70機くらいで、日々の戦闘で損耗して衰弱して行きます。
この損害で、作戦発動前に、ムグロ、ベナベナ、カイナンツ飛行場攻撃の構想は、崩れたのです。
しかしもしも、航空機の損害を受けなかったとしても、ラエ、サラモア地区に逐次投入した残余の航空部隊で、ムグロ、ベナベナ、カイナンツ飛行場攻撃が成功したか、はなはだ疑問です。
陸軍航空としては、航空大兵力を集結させたつもりですが、それでも敵航空経力との隔絶した差・・・制空権を得られたかすら疑問です。

サラモア地区からの撤退と連合軍の攻勢

同じ頃、半ば見捨てられた感のある、ラエ、サラモア地区の66連隊の守るカミアタム高地が、連合軍の浸透を受け、危なくなりました。
ここでも、66連隊の兵力不足が仇となったのです。
8月16日、中野師団長は、カミアタム高地の北方、草山と呼ばれる新陣地に、66連隊の後退を命じました。
草山陣地は、ラエ、サラモア地区に舟艇異動して来た、41師団の歩兵団司令部(238連隊基幹)が陣地構築して、着陣していました。
海岸のボイシの陣地も、連合軍に奪取され、中野中将は縮小したロカン、草山、ボブダビの陣地の死守命令を出します。
連日の激戦にも関わらず、日本軍は、ロカン、草山、ボブダビの陣地を死守していました。

9月2日、第8方面軍から、もはや全滅以外の道がないラエ、サラモア地区は、必要があれば、撤退すべしと命令が来ました。
撤退計画、撤退方法もままならない中、9月4日にポポイにオーストラリア第9歩兵師団が上陸しました。
本文には、アメリカ軍と書かれていますが、これは間違えです。
英文資料には、上陸時に日本航空部隊の空襲に遭い、100名の戦死者を出したと書かれています。
どの航空部隊の攻撃なのか、自分には資料がありません。

9月5日には、ナザフ平原に、米503空挺連隊が降下しました。
本文には、オーストラリア軍空挺部隊と書かれていますが、これは間違えです。
ポポイにも、ナザフ平原にも防衛部隊はなく、これで、ラエ、サラモア地区の部隊の退路が絶たれました。

ブナ地区の戦闘に、ラエ、サラモア地区の戦闘、日本軍は正面から当たるに頑強で、損害が多いとアメリカ軍は学習しました。
そのためこれ以降、日本軍部隊を避け、制空権、制海権を背景に、日本軍部隊後方に上陸します。
もうマッカーサー軍には、損害をものともせず攻撃する、世界一の猛将は必要ないのです。
これはある意味、マッカーサーのカエル飛び戦術の先駆けではないでしょうか?

このアメリカ軍の戦術で、日本軍は、戦わずして損耗するのです。

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2015年3月20日 (金)

ニューギニア決戦記(3) / 越智春海


兵科記号について

文章の理解の一助にと、図を多用しています。
ニューギニア戦は、登場部隊数も多く、兵科(軍内で細分化された部隊の専門職)も多岐に渡ります。
図に部隊名を入れて行くのは煩雑で、またごちゃごちゃして見にくくなってしまいます。

軍隊では昔から、兵棋演習(図上演習)の際、兵科記号を用いていました。
現代では、軍の作戦を図示する場合、NATO軍の標準化された兵科記号を用いるのが一般的なので、以後これに倣い図示して行きます。

部隊規模に関しましては、前回の記述を参考に願います。

前回の記述は日本陸軍に関するもので、アメリカ軍、オーストラリア軍には以下の例外があります。

1.「師団」の上位組織は「軍団」、「軍団」の上位組織は「軍」
2.オーストラリア軍はイギリス式編成ですので、大隊の上位組織は「旅団」、「旅団」の上位組織が「師団」
3.アメリカ軍海兵部隊は部隊番号に「M」をつけています
4.可能な限り部隊番号をつけていますが、以下の場合部隊番号をつけていません
・独立部隊
・集成部隊(つまり寄せ集め部隊)
・部隊番号が不明
・独立部隊を除く、日本軍、アメリカ軍の大隊以下、オーストラリア軍は中隊以下
5.兵科記号で、機械化されているかされていないかの区別がつけられますが、煩雑になるので割愛しました
・日本軍は機械化されていません
・アメリカ軍、オーストラリア軍は機械化されています
6.騎兵部隊は、この時代には馬には乗っておらず、歩兵として戦いました
7.参考までにアメリカ軍の歩兵部隊の規模は以下の通りとなります
・師団 約15,000人
・連隊 約3千人
・大隊 836人
8.参考までにオーストラリア軍の歩兵部隊の規模は以下の通りとなります
・師団 13,000-18,000人
・旅団 約3,500人
・大隊 800-900人



第三章 ブナ地区の壊滅

パサブアの玉砕

太平洋戦争の戦記を読んで行く時、後方地区が戦場になる想定を全くしておらず、泥縄式に準備不足の戦場で苦戦しているのを読みます。
現在のビジネスでも日本人は、ネガティブな予測は、発言すら禁じる(そして嫌われる)傾向にありますが、愚かしい事です。
最悪の事態に備える(ダメージコントロール)のは、ビジネスとしては当然、最悪の事態にならないのは、むしろ喜ばしい事と言えます。

前回、南海支隊が目指したブナ地区の海岸陣地は、日本軍としては珍しい手回しの良さと書きました。
しかし問題もあると・・・

20kmにも渡る、一大湿地帯のブナ地区の陣地を構築したのは、工兵科の横山与助大佐でした。
湿地帯の陣地のため、穴を掘ると水が沸いて来て、補給不足の栄養失調に加え、湿地による健康低下をもたらしました。

実は、ブナ地区の戦闘は、詳しく書かれている著作がなく、長年謎だらけでした。
それでも少ない記述を読むと、小人数の部隊がアメリカ軍に包囲されながらも、頑強に抵抗したが、抵抗むなしく玉砕(真の意味での全滅)したように書かれています。
しかし本書を読んでビックリ!少人数どころか、1万名くらいの部隊が、ブナ地区に着陣していたのです。

そして陣地の配置を調べて、2度ビックリ!?
陣地は20kmもの範囲で、1万の部隊が守るにはあまりに広過ぎ。
素人の自分が見てもすぐに分かる、陣地相互に支援出来ず、各所に孤立して存在しています。

どうも横山大佐は、陣地構築に関しては長けた方だったようですが、戦闘経験はなく、防御計画もないまま、漠然と陣地を構築したようです。
これは例えると、旅行計画を立てないまま、電車に飛び乗った、1万人の社員旅行と思えば、いかに無謀だったか、お分かり頂けますでしょうか?

ブナ地区の状況

【1942年12月頃のブナ地区の状況】
①ブナ陣地(山本重省大佐) 2,800名
②ギルワ陣地(横山与助大佐) 
 ・北ギルワ陣地 700名
 ・中央陣地 4,500名
 ・南ギルワ陣地 1,000名
③パサブア陣地(山本恒一少佐) 800名
④ゴナ陣地(指揮官不明) 300名

堀井少将が死亡した1942年11月19日、100kmジャングルを切り開いて、ワニゲラから進撃したアメリカ軍は、制空権、制海権をバックに、豊富な弾薬を消費して、ブナ陣地に攻撃を開始しました。

どうして、ブナ戦を詳しく書いている著作がないか?
これはブナ地区の戦闘を統括指揮していた横山大佐が、アメリカ軍の攻撃開始当初は、防御部隊の苦戦をよそに、楽観的報告を18軍に上げていました。
しかも報告内容は、18軍が実情を把握し得ないずさんな内容で、敵情も信じられないほど過少報告(3個大隊約4,500名)していました。
今日では、攻撃して来たアメリカ軍が、3個大隊どころか、3個師団(約48,000名)だと判明しています。
4,500名の敵と、48,000名の敵では、取るべき作戦計画が根底から異なります。
そしてブナ陣地、パサブア陣地、ゴナ陣地は全滅してしまいましたので、戦闘詳細の記録が残されていません。

18軍は、たかだか敵の3個大隊をどうして撃退出来ないのか不思議に思い、とりあえず手持ちの独立混成21旅団、南海支隊の増援部隊を増援する事にしました。
輸送船による輸送は、敵制空権下、不可能なので、深夜に高速な駆逐艦で兵のみ輸送し、朝明るくなる前に、敵制空権下から退避する計画でした。
この夜間の輸送を、前線部隊ではネズミ輸送と呼んでいました。
しかしネズミ輸送では、大口径砲、装甲車、戦車等の重火器は運べず、部隊の額面戦力はかなり低下した状態となります。
1942年11月28日に出発しましたが、途中敵爆撃機の空襲に遭い中止。
やむなく第2回目、12月1日、パサブア泊地まで進出できましたが、敵の攻撃に遭い、上陸計画地よりかなり北にようやく半数の以下兵400名のみ、上陸成功。
21旅団長山県栗花生(やまがたつゆお)少将も、この時一緒に上陸しました。
第3回目も失敗、第4回目に、ブナ地区から90kmも離れた地点に、南海支隊長小田健作少将以下約900名上陸出来ましたが、いつになったら戦場に着けるか分からない状況でした。
しかも部隊を送るのが精一杯で、食料、武器、弾薬の戦闘に必要な物資の補給を送る事は、不可能な状況だったのです。

もう駆逐艦で、細々部隊補給をする事すらままならず、さらに積載量の低い、海軍の潜水艦で補給品や、人員の輸送をせざるを得ませんでした。
これを前線部隊では、モグラ輸送と呼んでいました。
輸送量は、雀の涙程度、部隊を養うなど、思いもよらない量でした。

山県少将以下、21旅団は、パサブア陣地に合流しようと前進しましたが、途中オーストラリア軍と遭遇して頓挫。
1942年12月4日、オーストラリア軍に包囲されたパサブア陣地は、800名の内戦闘部隊はほとんどなく、道路建設人夫ばかり。
それでもオーストラリア軍に対し、4日間勇戦したと、オーストラリア軍が伝えています。
残余の兵は脱出を図りましたが、大部分が途中討たれ、数人のみ運良く生き延びだそうです。

他の陣地には、歩兵もいたのに、人夫だけの陣地とは、何と言う体たらくでしょうか?
この辺が、防御計画のない弊害ですね。
もっと言うと、横山大佐に指揮を任せていた事自体、間違えだったでしょう。
おかしいと、誰も指摘しなかったんでしょうか?

ブナも玉砕

先に、ブナ陣地を攻撃したアメリカ軍でしたが、日本軍の意外な抵抗に遭い、攻略に手間取っていました。
そこに、先にパサブア陣地を落としたオーストラリア軍が、アメリカ軍の攻撃が手ぬるいと、マッカーサー大将にクレームをつけました。
人夫によるわずか800名の守備隊と違い、歩兵出身の山本大佐、部下も歩兵部隊2,800名、配下に海軍部隊もいて、食料も豊富、堅固な陣地・・・と来れば、アメリカ軍も苦戦したのは当然と言えます。
マッカーサー大将は、ブナ地区攻略指揮官、アイケルバーガー中将に、「ブナを取れ、さもなくば生きて帰るな」と命令します。

これまでにも増しての、連合軍爆撃機の空襲、間断ない砲撃で、ジャングルの木は焼け、陣地は露出しましたが、それでもブナ陣地の一角しか奪取出来ず、大損害を受けました。
アメリカ軍は、オーストラリア軍が、良くパサブア陣地を奪取したと感嘆したそうです。
損害を出しながらも、辛抱強く連日砲爆撃、装甲車、戦車、歩兵による攻撃を続け、1942年12月20日には、ブナ陣地が寸断されました。
後は、抵抗する残余の掃討だけなのですが、ここでも陣地の日本軍は、頑強に抵抗したそうです。
ブナ陣地の最後は、翌年1月2日頃と推測されています。

本来、ブナ陣地の上級指揮官である横山大佐は、ブナ陣地の激戦について18軍に何の報告もしていませんし、戦闘期間中増援を送ろうともしませんでした。
ブナ地区の戦闘が、後世に伝わっていないのは、こう言う理由です。
この辺も、防御計画のない弊害ですね。

増援された、山県少将配下の21旅団の少数の兵が、海岸伝いに、上陸用舟艇でブナ陣地の救援に向かいましたが、間に合いませんでした。
実は救援を命じられた、この時の指揮官、矢沢清美大佐と配下の部隊が、ブナ陣地までたった8キロを、8日かけてのろのろ進んで到着しない内に、ブナ陣地が陥落したそうです。
部隊がブナ陣地に入っても、焼け石に水だったでしょうが、矢沢清美大佐は部隊を取り上げられました。
ブナ陣地攻略によって、アイケルバーガー中将は、アメリカ軍の公刊戦史に、世界一の猛将と書かれました。

ブナ陣地の日本兵は、頑強ではありましたが、このくらいの戦闘は、太平洋戦争のそこかしこにあります。
しかし、ニューギニア戦では、アメリカ軍を苦しめた1つの戦闘でした。

危機迫るギルワ

ブナ地区の主陣地、横山大佐が守備するギルワ陣地の一角、南ギルワ陣地に11月中旬、アメリカ軍が猛攻を加えました。
しかしその後、ブナ陣地攻略に腰をすえたのか、平穏(1日2時間の空襲と、毎分砲弾500発の砲撃1時間が1日2回)でした(?)。
この間、例えば激戦のパサブア陣地を救援しようとしましたが、部隊は少数で、救援のタイミングも遅過ぎ、オーストラリア軍の重囲に阻まれました。
本気で、救援しようとしていたように見えません。
越智春海は、横山大佐が御身大事で、自分の近辺から部隊を出さなかったのではないか?と書いています。

全て無残

1942年12月上旬頃、18軍の参謀が、この地に視察に来ました。
前線では、期待を持って迎えられましたが、前線の実情に無理解、無神経な質問をして顰蹙(ひんしゅく)を買ったそうです。
大本営では、ニューギニアの苦境をようやく理解し、戦線の整理の方針を立てましたが、ブナ地区から後退して、後方のクムシ河口に第2戦線を構築する程度のものでした。
それでも太平洋戦争で、陸軍初の撤退作戦でした。
さらに、補給がままならず、餓死者続出のガダルカナルも撤退と決まりました。

すでにブナ地区は、制空権、制海権とも失われていて、まさにアメリカ軍が攻撃しようとしているのに、いかなる方法で第2戦線を構築するのか、考慮されていませんでした。
時期が遅すぎて、適切さも欠く・・・まさに、机上の空論の作戦計画だったのです。

最後の関頭

ブナ守備隊/南海支隊のブナ地区退却

18軍から参謀が、海軍の潜水艦に乗って、退却命令を携えて来ましたが、この潜水艦がアメリカ軍に撃沈されたため、命令は届かなかったそうです。
そうこうしている内、1943年1月上旬には、ブナ陣地を落としたアメリカ軍が、ギルワ陣地にも猛攻を加えて来ました。
当時ギルワ陣地には、21旅団長の山県、南海支隊長の小田の2人の少将がいましたが、1月16日にはブナ陣地も戦線混沌として、山県少将は小田所少将と連絡が付かなくなったと述べています。
越智春海は、これは山県少将の、後からの言い訳ではないか?と書いています。
横山大佐は、いち早く安全な後方に行って、戻って来ませんでした。
昼間、頭上にはアメリカ軍機がハエのように飛び交い、雨のような砲弾が降る状況でしたので、後方に下がるために、深夜に上陸用舟艇で海岸伝いに兵を運ぶ事になりました。
撤退命令を知っていた山県少将は、舟艇で撤退出来ましたが、撤退命令を知らず、陣地に取り残された小田少将は、アメリカ軍の重囲を突破出来ず、最後は自殺してしまいました。
小田少将以外にも、撤退命令を知らず、陣地に取り残されたり、舟艇のいる海岸までたどり着けなかったため、自力で戦いながら後退した部隊もいましたが、後退の際には大損害を出しました。
最終的に、ブナ地区の戦闘で、9千名近く戦死しました。
南海支隊、21旅団とも、壊滅しました。

しかもこれは、悲惨なニューギニア戦の、プロローグに過ぎないのです。

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2015年3月19日 (木)

ニューギニア決戦記(2) / 越智春海


兵科記号について

文章の理解の一助にと、図を多用しています。
ニューギニア戦は、登場部隊数も多く、兵科(軍内で細分化された部隊の専門職)も多岐に渡ります。
図に部隊名を入れて行くのは煩雑で、またごちゃごちゃして見にくくなってしまいます。

軍隊では昔から、兵棋演習(図上演習)の際、兵科記号を用いていました。
現代では、軍の作戦を図示する場合、NATO軍の標準化された兵科記号を用いるのが一般的なので、以後これに倣い図示して行きます。

部隊規模に関しましては、前回の記述を参考に願います。

前回の記述は日本陸軍に関するもので、アメリカ軍、オーストラリア軍には以下の例外があります。

1.「師団」の上位組織は「軍団」、「軍団」の上位組織は「軍」
2.オーストラリア軍はイギリス式編成ですので、大隊の上位組織は「旅団」、「旅団」の上位組織が「師団」
3.アメリカ軍海兵部隊は部隊番号に「M」をつけています
4.可能な限り部隊番号をつけていますが、以下の場合部隊番号をつけていません
・独立部隊
・集成部隊(つまり寄せ集め部隊)
・部隊番号が不明
・独立部隊を除く、日本軍、アメリカ軍の大隊以下、オーストラリア軍は中隊以下
5.兵科記号で、機械化されているかされていないかの区別がつけられますが、煩雑になるので割愛しました
・日本軍は機械化されていません
・アメリカ軍、オーストラリア軍は機械化されています
6.騎兵部隊は、この時代には馬には乗っておらず、歩兵として戦いました
7.参考までにアメリカ軍の歩兵部隊の規模は以下の通りとなります
・師団 約15,000人
・連隊 約3千人
・大隊 836人
8.参考までにオーストラリア軍の歩兵部隊の規模は以下の通りとなります
・師団 13,000-18,000人
・旅団 約3,500人
・大隊 800-900人



第一章 南海支隊

開戦初期の明暗

開戦初頭のソロモン/ニューギニア作戦

南海支隊とは、先のビルマ決戦記で、アキャブ戦を戦い、ビルマ南部を戦いながら退いた、55師団の1部、144連隊を基幹とする部隊です。
陸軍の中でも、上陸作戦訓練を行った部隊で、太平洋戦争海戦後、グアム島作戦で、たった半日でグアム島を攻略しました。
陸軍も海軍も、この先の作戦については、話し合われていませんでした。

南海支隊はこの後、ニューギニア手前の、ニューブリテン島ラバウルも占領します。
前回、攻勢終末点と言う事を書きましたが、実はニューギニアの手前のラバウルですら、陸軍の攻勢終末点の外でのはずでした。

本書には書かれていませんが、1月25日に水上機部隊がラバウルに進出します。
1月31日に、96式戦闘機(以後96戦)装備の千歳空分遣隊が、ラバウルの基地航空隊として進出し、これがラバウル航空隊の始まりです。
正式にラバウル航空隊と言う部隊があったわけではなく、4つあったラバウルの飛行場を使用していた航空部隊の俗称です。
2月上旬、九六式陸上攻撃機(以後中攻)、一部一式陸上攻撃機(以後陸攻)装備の第4航空隊(後に第702海軍航空隊に改称)が、ラバウルに進出します。
積極的にラバウル近づいた敵艦隊攻撃、ポートモレスビー爆撃をしますが、大損害を受け月内に壊滅しました。
3月5日、中攻装備の第1航空隊(後に第752海軍航空隊に改称)が、ラバウルに進出します。
1942年4月に、零式艦上戦闘機(以後零戦)装備の台南航空隊(後に第251海軍航空隊に改称)が、ラバウルに進出します。
台南航空隊には、著書「大空のサムライ」で有名な撃墜王、坂井三郎一飛曹(当時)がいました。
台南航空隊はフィリピンからジャワを転戦して活躍し、当初ラバウルでも大活躍で、キラ星のような多くの撃墜王が誕生しましたが、反面損耗も激しく、短期間で死傷して隊を去りました。

ポートモレスビー

フィリピンで日本軍に敗れたマッカーサーが、ニューギニア南岸、ポートモレスビーまで退却して拠点としていました。
ポートモレスビーは、オーストラリア防衛のための前衛拠点、対日本軍の反攻拠点として、重要な位置にありました。
南海支隊はこの後、一旦日本に帰る予定だったのですが、帰国を取り消され、ポートモレスビー攻略の拠点確保のため、ニューギニア北岸、ラエ、サラモアを攻略した後、ラバウルに戻り、ポートモレスビー攻略、MO作戦を命じられます。
南太平洋の制海権を得るには、ニューギニア、ひいては戦略重要拠点、ポートモレスビーの攻略は不可欠でした。

ポートモレスビーがあるニューギニアは本来、陸軍が考えていた攻勢終末点の外。
攻勢終末点が重要なのは、軍事常識ですが、越智春海同様、攻勢終末点はどこに言ったんだという感じですね。

フォン湾に進出

さらに海軍は、陸軍にオーストラリア侵攻を持ちかけますが、最低11個師団、20万名以上必要と言う事で、そんな余裕のない陸軍の反対にあい断念します。
それならと、米豪遮断作戦、フィジー・サモア侵攻作戦、FS作戦を持ちかけると、こちらはおよそ3個連隊くらいの兵力で実現可能なので、陸軍も同意します。
ここでも越智春海は、攻勢終末点の陸軍の認識のなさを批難しています。

ポートモレスビーの連合軍航空勢力が増大し、時々ラバウルにも小部隊の爆撃を仕掛けて来る事がありました。
海軍も、第4航空隊や第1航空隊にポートモレスビー爆撃させましたが、陸上で損害を受けた飛行機は、すぐにオーストラリアから補充され、増強されました。

3月7日、ポートモレスビー攻略の準備として、南海支隊が北岸のラエ、サラモアに上陸作戦を敢行。
サラモアにはオーストラリア軍の小部隊がいまいたが、少しの戦闘で後退しました。

4月17日、台南航空隊の一部が、ラエに進出しました。
この中には坂井三郎もいて、以後8月までラバウルと往復しながら、主にポートモレスビー攻撃、ラエ、ラバウルの防空をしました。

サンゴ海海戦

サンゴ海海戦

1942年5月8日、ポートモレスビー攻略をめぐって、南海支隊を乗せた輸送船を護衛する第6水雷戦隊と、南海支隊の上陸を支援する翔鶴、瑞鶴、祥鳳の空母3隻を中心とする機動部隊が、アメリカ軍のサラトガ、エンタープライズ、ヨークタウンの空母3隻を中心とする艦隊と戦います。
これが、歴史上初めて、空母艦隊同士の戦い、サンゴ海海戦です。
日本側は奇襲攻撃のつもりでしたが、この頃すでに、日本海軍の暗号は敵に解読され、アメリカ側はサンゴ海で待ち構えていたのです。
日本側は、小型空母祥鳳が沈み、アメリカ側は大型空母サラトガが沈みます。
単純に損害を考えると、小型空母のみの損害だった日本側が戦術的勝利、しかし海からのポートモレスビー攻略作戦が中止となり、アメリカ側の戦略的勝利と言われています。
ポートモレスビーの航空部隊は増加し、これ以後サンゴ海の制空権はアメリカ側のものとなり、海からのポートモレスビー攻略は困難になります。

余談ですがサンゴ海海戦で、4空の中攻がラバウルから出撃して米軍艦隊攻撃をしてほとんど戦果なく、大損害を受けて2度目の壊滅をしています。
マレー戦の際、中攻、陸攻によって、イギリスの戦艦プリンス・オブ・ウエールズ、巡洋戦艦レパルスを沈没させました。
この頃になると、米軍艦の対空装備は抜きん出て優れていて、防弾のない中攻、陸攻では軍艦に接近する事すら困難で、バタバタと落とされました。

第十七軍の発足

MO作戦、FS作戦実施のため、陸軍はラバウルに、17軍を編成します。
旧日本陸軍としては、師団編成の部隊がない、2戦級の軍だと、17軍の二見参謀長が嘆きます。
1942年5月3日海軍は、ラバウル防衛のため、ニューギニア北部、そして中部太平洋のソロモン諸島、ガダルカナル島とツラギに、上陸して、拠点を築こうとします。

横山先遣隊

南太平洋の制海権を奪取したい海軍が、陸軍に陸路からのポートモレスビー攻略を要請し、陸軍もこれを了承し、リ号研究作戦として、現地軍に検討を指示します。
実現可能かどうか検討すると言う段階だったにも関わらず、当時大本営参謀だった辻正信中佐が、7月15日に現地の17軍司令部に行った際、大本営が陸路攻略を決定したとウソの通知をしたため、17軍から南海支隊に作戦が発動されました。
この行為は、軍法会議ものですが、不思議な事に当時、辻正信を誰も責めませんでした。
そしてこの事が、とんでもない悲劇を招くのです。
辻正信の事はビルマ決戦記でも書きましたが、ノモンハン、マレー、ニューギニア、ガダルカナル、ビルマで、余計な事をしでかして、日本軍の戦死者を増やします。
不思議な事に当時、辻正信は、作戦の神様と呼ばれていました。

この時のニューギニアは、古代から大部分が手付かずの状態で、ざっくり95パーセント以上人跡未踏のジャングルで、住んでいるのも未開の部族。
陸軍には地図はなく、海軍に要求して出てきたのも、真っ白なニューギニアの地図に、道が一本通っているだけと言う、およそ信頼性に書ける地図だったと言います。
ニューギニア北岸から徒歩で行くには、オーエンスタンレー山脈と言う、2,000m級の山を越え、距離220km、実質2倍以上の距離を歩かなければなりません。

東京や大阪、名古屋など、都市圏に住んでいる人なら、ピンと来ないと思いますが、道があるかどうか分からない人跡未踏のジャングル、道なきジャングルを切り開き、2,000メートル級の山の登山をして、山を下って戦闘するのは、正気の沙汰ではありません。
補給はどうするつもりだったのでしょうか?
恐ろしい事に、事前に何の検討もされていませんでした。
銃弾がなければ戦闘は出来ませんし、人間は食べなければ、戦闘どころではありません。
了承したのは大本営陸軍部ですが、実際に行くのは南海支隊なので、ロクに検討もせず、安易に了承するとは勝手なものです。
当時の陸軍も海軍も、上意下達・・・上部組織は現地部隊の意見を聞く事は少なく、命令さえすれば、後は現地部隊が何とかする・・・それが当たり前の世界でした。

これは、現在の会社組織でも見る光景ですが、現場、現状を認識していない命令は混乱を招き、無駄な負荷労力がかかり、損多く利少ないものです。
仕事で人は死にませんが、これが戦争なら、たくさんの人が死傷するのです。

ちなみにヨーロッパでは、山岳歩兵部隊と言う、高地の戦闘専門部隊がありました。
残念ながら旧日本陸軍には山岳歩兵部隊はなく、高地戦の知識、ノウハウもないまま、根性だけを当てにして、南海支隊が向かわされたのです。

南海支隊のポートモレスビー進撃


第二章 ポートモレスビーの灯

米軍ガダルカナルに上陸

米第1海兵師団のガダルカナル上陸

1942年8月7日、アメリカ軍が、ガダルカナルおよび対岸のツラギに上陸します。
海軍は、ガダルカナルで飛行場建設、および対岸のツラギに水上機基地があり、この事は海軍でもごく一部の人しか知らなかったそうです。
アメリカ軍ガダルカナル上陸のニュースが流れ、海軍航空隊ですらダルカナルってどこだ?となったと、坂井三郎「大空のサムライ」に書かれていました。

しかし戦後、大本営参謀本部作戦課長の服部卓四郎大佐が、海軍が陸軍にガダルカナル飛行場建設を知らせなかったと主張しているのは、ウソだと判明しています。
ガダルカナルやツラギは、当時の日本軍の最前線であるラバウルの、1032kmかなたです。
陸軍に知らせていようと、いまいと、こんな、とんでもない最前線に、防衛も考えず進出を命じ、軽く考えていたのは驚くべき事です。

一木支隊のガダルカナル攻撃

大本営では、アメリカ軍のガダルカナル上陸を、何の根拠もなく偵察程度の攻撃と判断し、アメリカ軍の兵力を2千程度とし、これに対して一木支隊900名の兵を差し向けます。
現在の企業でも、積極策の名の元に、情報分析を軽視し、自分の都合の良いように状況を断定して計画を立て、蓋を開けたら大失敗なんて事は、その辺中にあります。
特に計画力も、判断力もないのに、肩書きだけで張り切って計画を立てる人ほど、状況分析に耳を貸さず、危ういですよね。

果たして、上陸したアメリカ軍は、今日10,900人と分かっており、戦車まで揚陸していました。
一木支隊は、自分達より有力な敵に、ロクに偵察もせず、頭から突っ込んで自滅しました。
一木支隊のわずかな敗残兵は後退しましたが、アメリカ側の損害はゼロに近いものでした。
大本営は、FS作戦に投入予定だった川口支隊約4,000名を、ガダルカナル奪還に投入する事を決めました、

ガダルカナル近辺の敵を、少しでも叩こうと、連日ラバウルから戦闘機、爆撃機が出撃します。
かの有名な撃墜王、坂井三郎は、ガダルカナル航空戦の初日に、重傷を負って前線を去ります。
その後も、腕の良い飛行機乗りが、くしの歯が欠けるように、続々戦死、戦傷して行きました。
特に、爆撃機(中攻、陸攻)の損害は物凄く、701空、702空(第4航空隊)、703空、705空、707空、752空(第1航空隊)、753空、755空の定数約300機弱が、続々短期間で壊滅。
中攻、陸攻の墓場と揶揄(やゆ)されるほどでした。

現在の会社では、倒れたり、病気になる人が続出するプロジェクト(俗にデス・マーチ・プロジェクトとか言いますね)は、根底から見直しが入ります。
通常、それまでプロジェクトを切り盛りしていた人は、ここで退き、新たな人がプロジェクトマネージャーになり、プロジェクトの改善を実施します。
しかし当時、これだけ海軍航空隊の損害が続出したのに、それにメスを入れる事は、何ひとつなされませんでした。
当時の現場最高司令官、山本五十六大将を名将とする人は多いですが、この事からしても、自分には名将とは思えませんね。

悲惨な撤退

海軍陸戦隊によるミルン湾攻撃

ガダルカナルがこんな状態だと言うのに、海軍は陸海軍協定の通りに、ニューギニア東岸のミルン湾に、海軍陸戦隊を上陸させます。
これは、ポートモレスビー攻略の支作戦で、ミルン湾の攻撃により、ポートモレスビーの兵力をミルン湾に割かせ、ポートモレスビー攻略を容易にしようと言う意図です。
冷静に考えれば、ガダルカナルの戦闘の進捗を見て実施が良かったと思いますが、日本軍は今まで闘えば勝っていたので、一木支隊の失敗も、次には挽回出来ると思っていたのでしょう。

ロクに偵察もせず、第1波は優勢な敵前に上陸して空陸から物凄い砲爆撃を受け、上陸した食料、弾薬を失い、ジャングルに逃げ音信不通。
第2波は、上陸前に空襲にあい、上陸用舟艇が全滅、ごく一部のみ泳いでミルン湾に上陸。
第3波も、上陸したものの、空陸から物凄い砲爆撃を受け、部隊はジャングルに四散。
さすがにヤバいと思った海軍は、巡洋艦以下、救援に向かい、投入した海軍陸戦隊約1,900名の内、1,000名程度を救出しました。

一般に軍隊は、損害20%で全滅の判定をします。
これは仕事に例えると、10人でヒーヒー行ってこなしていた仕事を、全く同じに8人で実行出来るか?考えて頂ければ、分かると思います。
実施するべき任務が遂行出来なくなる・・・すなわち全滅と判定する訳です。
それがこの戦いでは、戦死50%近く・・・
この作戦は、陸海軍の協定で決まっていたため、実施しましたが、海軍の陸戦オンチが伺えます。

海軍陸戦隊自体は、上陸作戦のエキスパートですし、例えばギルバート諸島では要害に寄って防御して、勇戦したりしました。
しかし総合的にみると、陸上戦闘に関しては、陸軍には及びませんでした。
さらに悲劇は、作戦立案する海軍上層部が、軍艦専門や事務屋ばかりで、陸戦を理解していなく、無茶な作戦でひたすら損害を重ねました。
この作戦は、海軍の戦闘なのですが、本書に軽く書かれています。

さて、本項目の主役、南海支隊です。
ジャングルを人力で切り開きながら、ふらふらポートモレスビーへ難行軍していましたが、しばしばオーストラリア軍の有力部隊とぶつかっては、進撃が停滞しました。
この時の前線指揮官が、陸上戦闘の経験も知識もなかった・・・そんなエピソードが書かれています。
長年、副官の仕事をしていたようで、上官の点数稼ぎに敏感なため、すぐに兵を敵に突撃させたようです。
これでは督戦される兵は、無用な損害を受けるわけで、かわいそうですね。
例えば会社でも、秘書室のベテランを営業部に配属して、ガンガン注文を取って来れるか?またはSEに異動してバリバリ仕事をこなせるか・・・考えれば分かると思います。

それでも、根性で2,000m級のオーエンスタンレー山脈を越えました。
実はミルン湾の攻撃が失敗したため、大本営はオーエンスタンレー山脈を越えず、その場で待機と言う命令を下します。
この時、ガダルカナル島には、川口支隊(歩兵団規模)を投入する予定でした。
さらに南海支隊の指揮官、堀井少将は、ガダルカナル島攻撃が成功したあかつきには、前進命令が来る事は必定なので、少しでも前進しておこうと考えたのでしょうか?
ガダルカナル島の戦闘に負けないくらい、華々しい戦果を・・・と考えても不思議ではありません。
堀井少将は大本営命令を無視し、これまで通り、ポートモレスビーに向け前進させ、ついには街の灯が見えるところまで、前進しました。

この時の陸軍の考え方では、ニューギニア、ガダルカナル戦線で、主攻撃はポートモレスビー戦、片手間でガダルカナル戦を戦うと言うスタンスでした。
投入した部隊も、ポートモレスビー戦の方が多かったのです。

川口支隊のガダルカナル攻撃

1943年初頭の海岸から見たガダルカナルのジャングル

ジャングル内にアメリカ軍が開設した道路

必勝を期したはずの、川口支隊の攻撃は、輸送を急ぐ事により、大部分の砲を除く軽装備で送り込まれました。
大砲の支援がほとんどないと言う事は、攻撃力に劣ります。
主力の歩兵124連隊長、岡大佐と支隊長川口少将が、ガダルカナルへの兵の輸送方法について対立し、岡大佐と1個大隊が島伝いに舟艇輸送、川口少将と主力が駆逐艦による高速輸送しました。
岡大佐は途中、敵機の攻撃を受け、7割損害を出しますが、ガダルカナル島西端に400人ほどたどり着きました。
川口少将と主力部隊は、ガダルカナル島東方にほぼ損害なく、約3千人が9月7日までにおよそ上陸。
それでも駆逐艦に乗り切れないため、全兵力の80%くらいしか送り込めませんでした。
しかし持って行った数少ない砲は、アメリカ軍によって失ってしまいました。

アメリカ軍の背後から奇襲攻撃しようと、草木の生い茂る道なきジャングルを切り開き、ガダルカナル島の飛行場に向かいましたが、予想以上の難行軍。
上記の現地写真を見て頂けると、ガダルカナル島の自然の凄さが分かるんじゃないかと思います。

敵情偵察もままならず、9月12日の攻撃予定日に、部隊が攻撃位置に着く事が出来ませんでした。
川口少将は、9月14日延期を打診しますが、17軍から12日実施を厳命されました。
12日攻撃実施が無理なため、重ねてやり取りして、直前に13日攻撃許可を得ますが、全ての部隊には伝わらなかったようです。
一部の部隊が12日夜に攻撃、主力は13日夜に攻撃。
鉄条網を超え、攻撃しましたが、強力なアメリカ軍の火網に捕えられ、川口支隊にとって一方的な屠殺になりました。
田村大隊の一部が、敵陣を突破して敵後方に侵入しましたが、兵力不足も火力不足もあり、後続が続かず壊滅。

残兵千5百名で、結果としてアメリカ軍にほどんと損害を与えられない、無残な惨敗。
これによって、さらにガダルカナルに、精鋭部隊の仙台第2師団の投入を決めます。

そのため、この時から、主攻撃はガダルカナル戦、助攻撃がポートモレスビー戦となってしまいます。

これまでも、南海支隊に、わずかしか補給か届きませんでしたが、この後ますます、補給が届かない事を意味します。
川口支隊の攻撃失敗の後、さほど日を置かず、堀井少将は部隊に、退却を指示しました。
ちなみに補給が届かないのは、すでにこの地域の制空権、制海権を失っていて、海軍を初めとする輸送船が積極的でなかった(と言うより、輸送船を出すのは自殺行為だった)ためです。
不思議な事に陸軍上層部では、何の対策も打ちませんでした。

堀井少将は、わずかな食料を正式な配下の歩兵144連隊に回し、臨時に配備された歩兵41連隊やその他の部隊には、回さなかったそうです。
特に、歩兵41連隊は、先頭を切ってポートモレスビーに向かい、退却の際は損害を受けやすい、殿(しんがり)を命じられます。

旧日本陸軍では、部隊の貸し借りは、大きな単位では歩兵団、小さな単位としては小隊まで、様々他部隊への派遣、原隊復帰が頻繁に行われました。
他部隊へ派遣された部隊は、大事に扱われる事もあったそうですが、逆に常に激戦に投入されて、散々な目にあう事の方が多かったそうです。
これは、様々な方が書いた戦記に書かれている事で、恐らく公然の秘密のようなものと推察します。

越智春海は、この事をもって、堀井少将を批難しています。
もちろん、堀井少将は批難に値するのですが、自分にしてみれば、何を今さら・・・と言う感じです。

現在の会社でも、破綻したプロジェクトに応援に出される時には、覚悟を持って行きますね。
応援に出された部隊(または担当者)が、いつの間にかメイン担当・・・なんて事を、何度も見て来ました。


第2師団のガダルカナル攻撃

2度の奪還作戦が失敗し、ガダルカナル島を今度こそ奪還するべく送り込んだのは、伝統ある精強第2師団およそ2万の兵力です。
今度は、正面から攻撃出来るよう、高速輸送船6隻に、重火器、戦車を積んでガダルカナルに送り込みました。
10月17日輸送船から武器、弾薬、食料を揚陸中、ガダルカナルの飛行場からの空襲に遭い、兵員こそ揚陸できましたが、食料は50%、重火器類は20%くらいしか揚陸出来ませんでした。
そのため、正面からの攻撃を取り止め、またもやジャングルを切り開いて、ガダルカナル島の飛行場背面から攻撃・・・と言う、川口支隊と同じ場所を攻撃する作戦となりました。
ハッキリ言って、同じ場所を2度攻撃するのは愚策です。
奇襲効果もなく、背後に回る意味もありませんが、太平洋戦争中に日本陸軍が、なんとかのひとつ覚えで良く実施した作戦です。
こんな作戦を立てると、士官学校で良い点が取れたのでしょうね。

千古の高い木々、山あり谷あり湿地ありの草繁る漆黒のジャングルを、砲や人が通れる道を新たに作りながら進軍するのは容易な事ではありませんでした。
10月20日の攻撃予定日に間に合わせるべく、督促され、攻撃開始位置に付くまで、食料もなく、ロクに休憩も取れないありさま。
それでも20日に間に合いませんでしたが、今度は17軍の百武中将もガダルカナル島に来ていましたので、すんなり10月22日深夜への延期許可が出ました。
しかし10月22日もまだ、ジャングルの細い道を通る1万数千人の長蛇の行列は、攻撃開始位置に付けません。

10月23日でも展開し切れなかった部隊もいたようですが、これ以上攻撃を延期できないと考え、攻撃命令を出しましたが、攻撃は各部隊バラバラで連携取れず。
今回は、前回以上に米軍も、ガダルカナル島飛行場背面の防備を固めていて、無尽蔵の銃砲撃を受け、再び一方的虐殺となりました。
日本軍は、揚陸時に弾丸を少ししか揚陸出来なかったため、敵陣突入後まで銃を撃つのを禁じられ、敵陣突入は銃剣突撃と命令されていましたが、状況はそれ以前の問題で敵陣に近づくのもままならず、地面に這いつくばっているのが精一杯という状況。
10月24日、川口支隊が、ガダルカナル島の飛行場占領の電報を出しましたが、夜襲のための誤報です。
損害の多い部隊は半数以上が死傷、少ない部隊でも25%もの大損害を受けました。
対するアメリカ軍は、ほとんど損害なし。

陽動攻撃で、東側から住吉支隊も攻撃しましたが、敵陣を抜けず。
海岸線から、ようやく揚陸出来た戦車中隊10両も攻撃しましたが、日本の戦車は装甲が薄いため、敵対戦車砲によって陣前で全滅。

当時、大本営参謀として、2師団に随行していた辻政信も、この戦いに随行していました。
著書では、テニスをしているアメリカ軍が見えたとか、日本軍は悪鬼の如く突撃して、あと1個大隊(約千名)あったら、飛行場を占領出来たとか書いているそうですが、すべて根も葉もないデタラメです。
防御万端のアメリカ軍に頭っから突っ込んで、何らアメリカ軍に損害も与えられない日本軍の一方的屠殺、回復不能の損害を受けたのみです。
作戦は、辻政信、2師団首脳陣が合議で決めたはずですが、川口支隊の攻撃失敗の戦訓を無視して、同じ方法で突撃して、ただ損害を受けたと言う、典型的作戦ミスです。
川口健夫少将は、再三この稚拙な作戦に意見して、攻撃発起地点到着前に罷免されてしまいました。

そもそもの話をすると、もはや制空権も制海権もなく、1個連隊(約3千名)の補給すらままならなりませんでした。
例えば、10月13日に、海軍の戦艦部隊が、ガダルカナルに砲撃をして、大損害を与えました。
そのタイミングで、陸軍も攻撃するとか、各兵科の連携を取らなければ、ガダルカナルの攻略は不可能だったでしょう。
そして、陸軍も海軍も、海軍航空部隊とも連携する事なく、各々勝手に戦闘しては、ますます勝つチャンスを自ら失うようなものでした。

一方、この章の主役、南海支隊の状況です。
進撃時にも、補給・・・特に食料不足(大人の必要カロリーの半分以下)による、落伍者を大量に出しました。
退却時は、オーストラリア軍の攻撃を受けながら、食料なく、弾薬補給もないまま、退却を続けました。
旧日本陸軍では、平時には、銃は大切なものととして、異常なくらい銃を大切にさせました。
しかし、この退却時、ニューギニア北岸に近づいた頃には、食べ物もなく、衰弱死する兵が続出したため、少しでも身軽にと、上官が命令して銃を捨てさせたそうです。
それくらい、極限状態でした。

本書に軽くしか書かれていない余談ですが、ニューギニア戦では、台湾の少数民族、高砂族が大活躍しました。
高砂族は、軍人ではなく軍属扱いで、補給や伐採等の、戦闘外の任務でした。
例え食料がなくとも、任務に忠実で、ある時には日本兵のために食料を持ってくる途中に、餓死した高砂族もいたそうです。
通常、食糧輸送をする補給部隊は、役得で自分が率先して食べるものです。
その高砂族は、一緒に戦う戦友の日本兵を常に丁寧に扱い、正直に運搬する食料には手をつけず、そのまま餓死してしまったのでした。
前進時には、率先して先頭に立ち、戦闘になっても、その場から退かず(軍属は退いても恥ではない)日本兵と一緒に戦いました。
日本政府は戦後、日本軍として一緒に戦った植民地の朝鮮人、台湾人を始めとする、各国の協力者を、日本人ではないとして、何の保障もせず切り捨てました。

望楼作戦

ニューギニア情勢

日本軍が、ミルン湾で、ガダルカナルで、苦戦している間、アメリカ軍はニューギニアのワニゲラに前進基地を建設し、そこから日本軍がいるブナ地区へ向けて、わずか1ヶ月程度で、人跡未踏のジャングルに100kmもの補給道路を建設します。
この時、ニューギニア戦のアメリカ軍、オーストラリア軍を中心とする連合軍を指揮していたのは、かのダグラス・マッカーサー大将です。
ニューギニアの対日反攻作戦は、ウォッチタワー作戦と名付けられました。
驚くべき事に、海軍哨戒機が、オロ湾のアメリカ軍の行動に気づいたのは、1ヶ月くらいたった1942年11月16日。
逆に言うと、ニューギニア地区に、陸軍の航空部隊は配備されていなく、航空偵察は海軍任せ。
海軍は陸上戦には興味がなく、制空権、制海権がアメリカ軍にあったとは言え、海軍の怠慢さが伺えます。

陸軍は、17軍だけでは、ガダルカナル戦、ニューギニア戦を戦うのは不可能だと考え、ニューギニア方面に18軍を新設しました。
18軍の司令官に、安達二十三(あだちはたぞう)中将が任じられました。
また従来の17軍と18軍を統括する、第8方面軍も新設しました。
第8方面軍司令官は、戦陣訓で有名な、今村均中将が任じられました。
発令は、1942年11月16日。

南海支隊はヘロヘロになりながら、追撃するオーストラリア軍と戦いながら、ブナ地区の海岸陣地を目指して、退却して来ました。
ブナ地区には、日本軍としては珍しい手回しの良さで、堅固な(しかし問題のある)陣地が作られていました。
本書を読む限り、堀井少将がどの地点で踏みとどまり、迫るオーストラリア軍を防ごうとしていたのか、全く見えて来ません。
防御に有利な地を、みすみす放棄して退却したりと、ただ恐怖に駆られ退却していたように見えます。
なるべく手前で食い止めるが良策は、軍事的には正しいですが、これまでほとんど補給がなかった訳で、無駄な餓死者を出さずに、むしろ良かったのかもしれません。

1942年11月19日、雨季で増水したクムシ川を筏で渡る途中に、筏が転覆し、堀井少将が流され死亡します。
越智春海は、どうせクムシ川を渡るなら、どうしてもっと川幅も狭く、浅い上流で渡らなかったか?錯乱していると批難しています。
堀井少将の死は、太平洋戦争に入って初めての、将官の戦死者でした。
指揮官をなくした南海支隊は、ブナ地区の海岸陣地を指揮していた、工兵科の横山与助大佐が臨時支隊長となりました。

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2015年3月14日 (土)

ニューギニア決戦記(1) / 越智春海

ビルマ戦記に続く、戦記物の書評。作者も同じ、越智春海です。

太平洋戦争の、日本軍の下手な戦ぶりは、ビルマ戦記(1)を参照願います。
また、戦記にウソが多いと言う点も、お読み頂ければと思います。

「ジャワは天国ビルマは地獄、死んでも帰れぬニューギニア」と言われたそうですが、その最悪最低の戦場、ニューギニア戦について書かれています。
ニューギニア戦に参加した日本軍、陸海軍のべ15万人以上で、日本に復員出来たのが、1万3千人と9割以上が、ニューギニアで亡くなっています。
しかも約14万人弱もの戦死者の大部分が、戦って死んだのではなく、餓死また食糧不足による衰弱死、病死です。
純然たる、戦闘による戦死は、当てずっぽうに1-2割くらいじゃないでしょうか?
ちなみに、アメリカ、オーストラリアを中心とする連合軍の損害が、戦死約12,000。
数字で見ても、散々な負け戦です。
戦闘は、人智を尽くしても、勝ち負けありますが、餓死、病死、衰弱死がここまで出たのは、上位組織の無策に他なりません。

太平洋戦争の、転回点の戦いではありますが、当初は無人の野を行くかの如き進撃(実は苦戦していますが)が少しあり、大部分はジャングルを彷徨い、数少ない戦闘もアメリカ軍のいいように押しまくられていたと言うのが実情です。
太平洋戦争の転回点も何も、そもそも戦になっていません。

ニューギニア戦に参加した人の手記は多くなく、またニューギニア戦の推移を通して書いた本も多くなく、越智春海の本書は貴重な一冊です。
ニューギニア戦に参加した人の手記が多くないのは、上記のように戦闘で死んだ人より、戦闘しないで、未開のジャングルを移動して、餓死、病死、衰弱死が続出したからではないでしょうか?
以前紹介したビルマ戦は、一方的に日本軍が追い立てられ敗北しましたが、前線の兵士は、いたるところで劣勢なのに勇戦し、連合軍側を驚嘆させています。
しかしニューギニア戦では、日本軍に勇戦する機会さえ、なかなか与えてもらえませんでした。

ニューギニア戦を理解する上で、開戦前に旧日本陸軍、海軍間で締結した「陸海軍中央協定」で、太平洋戦域は海軍が担当すると決まりました。
つまり太平洋上のニューギニアは本来、陸軍の受け持ちではなく、海軍の受け持ちだったのです。

旧日本陸軍は、そもそも満州とか、中国の広大な地で戦闘する事を想定していました。
世界に先駆け、大発、小発の上陸用舟艇を採用し、上陸作戦の研究もしていないではありませんが、太平洋の島々での島嶼戦(とうしょせん)を戦うつもりはありませんでした。
太平洋戦争が始まってもなお、陸軍ではアメリカと戦うための諜報活動でさえ、おざなりだったほどです。
大本営陸軍部第2部(情報)参謀、堀栄三の著作、「大本営参謀の情報戦記 情報なき国家の悲劇」に、堀栄三中佐が大本営陸軍部第2部の第6課(米英課)に入った時、参謀の米英担当がたった6名しかいなかったと書かれています。
6名が米国班、英国班、南方班(地図/地誌兼務)、戦況班に分かれていたそうなので、各々1-2名程度の参謀しか担当していませんでした。
旧日本陸軍の仮想敵国は中国、ソ連であって、上記の例の通りアメリカ、イギリスは軽視されていました。

海軍には、上陸戦闘を専門とする、海軍特別陸戦隊が、太平洋戦争開戦時に、2万名くらいいました。
しかしこの程度で、先の陸海軍中央協定で、太平洋を担当出来るはずもありません。
手に負えないところは、陸軍の協力を仰ぐ事になります。

例えば仕事で、他部署の協力を仰ぐ際、他部署の事情も考え、控え目に要求した事のある人は多いでしょう。
海軍も同様に、陸軍に協力を仰ぎ、陸軍では太平洋に大軍を送り込むつもりはないので、自分の都合良く敵情を下算し、兵力の逐次投入、各個撃破の悪循環となりました。

そもそも、どうしてニューギニアが戦場になったのでしょうか?
日本の太平洋戦争開戦時の計画には、ニューギニアなんぞ、含まれていなかったのです。
大本営で策定した戦略では、援蒋ルートの切断のため、英軍の太平洋進出を防ぐため、またアメリカ勢力の一掃を狙い、マレー半島からシンガポール、インドネシア、ビルマ、フィリピン、グアム、マリアナ諸島までの占領しか、考えていなかったのです。
太平洋戦争の良し悪しは置くとして、この戦略は妥当です。

太平洋戦争・第一段階作戦

本書で、越智春海は、陸軍には攻勢終末点と言う考え方があったが、海軍にはなかったと書いています。
攻勢終末点とは、補給する距離が伸びれば伸びるほど、補給負担が高まり、攻勢を支え切れなくなる限界点を言います。
日本が、朝鮮で戦争をするのと、遠く離れたニューギニアで戦争するのでは、補給負担が大きく異なる事は、自明の理でしょう。
海軍に、攻勢終末点と言う思想がなかったと言うのは、本当でしょうか?
しかし、あり得る話だと思います。

旧日本海軍は元々、アメリカとの戦争の場合、陸軍がフィリピンを攻略し、アメリカ軍が救援に出て来た所を、日露戦争の日本海海戦ばりに迎撃する作戦でした。
海軍も、この作戦を実現するために、軍備を整えていたのです。
ですから本来、真珠湾攻撃なんて発想は、ほとんどの海軍軍人にはなく、ましてや海戦の主役が航空母艦になる事すら、理解されていませんでした。
海軍の主力艦は戦艦・・・多くの海軍軍人は、終戦まで固く信じていました。

本来、海軍にも攻撃終末点はあります。
制海権下の港湾から港湾まで、輸送船の航続距離とネットワーク、物資の集積速度から、攻撃終末点を決定する事が出来ます。
しかしそもそも、海軍には、日本海海戦のような、乾坤一擲の海上決戦で雌雄を決すると言う発想しかありませんでした。
海軍の戦略、戦備は、敵の軍艦を沈める事しか考えられていませんでした。
同じ海に浮かぶものであるにも関わらず、船舶輸送、シーレーン確保・防衛と言う発想がなかったのです。

陸軍も海軍も、アメリカ軍の反攻は、開戦の1年半後、1943年春と、何の根拠もなく、規定事実の前提に立っていました。
これは、当時の連合艦隊司令長官、山本五十六の発言が元とも言われています。
上図の第1段階作戦が、思いの外スムーズに進捗したため、敵が反攻に出るであろう1943年春頃までに、出来るだけ占領地域を広げておこうと言う安易な考えから、ギルバート諸島やニューブリテン島、ニューギニア、ソロモン群島に手を広げます。
海軍が、オーストラリア攻撃を陸軍に持ちかけると、太平洋に大軍を派遣するつもりのない陸軍(最低11個師団20万名以上必要と算出)から、攻撃終末点を根拠に拒絶されます。
すると海軍は一転、オーストラリア包囲網を敷くために、フィジー・サモア攻略作戦を打ち出し、3個連隊程度(1万5千名くらい)の応援を陸軍に要請して、その程度の兵力ならばと、陸軍も了承します。
この事実をもって、越智春海は、陸軍の攻勢終末点の思想は、どこへ行ってしまったと嘆きます。

一般に、太平洋戦争の頃の旧日本陸軍は、時代遅れと思う人は多いですが、一方の海軍に関しては、けっこういい線行ってたと思っている人は多いです。
しかし越智春海は、ガダルカナル戦なんかの中部太平洋戦、そしてニューギニア戦を、海軍が無定見に防衛線を広げた事を批判しています。
上記の通り、海軍上層部では、海戦する事にしか興味がなく、船舶輸送、シーレーン確保・防衛と言う発想がなく、攻勢終末点を遙かに越えて占領地を広げたため、日本が敗北するきっかけをかなり早めたと言えます。
海軍のいくつかの兵器は、世界水準でしたが、兵器が良くても、戦略、戦術が間違っていれば、勝てる戦も勝てやしません。
コンピューターに例えると、いくら高速高性能なハードウェアがあっても、便利なソフトウェアがなければ、意味がないのと一緒です。
自分が思うに、陸軍と海軍は、似たかよったかと思います。

話は遡り1934年、ベイブ・ルース、ルー・ゲーリッグらを擁する大リーグ選手団が来日し、まだプロ野球のなかった日本で野球をします。
これがきっかけで、日本にプロ野球チームが出来るのですが、それは別の話。
実は大リーグ選手団の捕手、ルー・バーグは、後に諜報活動していた事が知られ、この時も大リーグ選手団に付随して、諜報活動していたのではないかと言われています。

アメリカは元々、交戦する可能性がある国の作戦計画を立てていまして、対日本戦の計画は、オレンジ・プランと言いました。
まだ日本と友好関係にあった、第一次大戦終結後の1919年に立案され、1924年に陸海軍合同会議で採用されたそうです。
第1案、第2案は兵器や戦術の進歩で時代遅れとなりましたが、第3案は日本軍が太平洋の多くの島を占領した事を想定し、島伝いに飛び石に占領しながら反攻して、グアムとフィリピンを奪回する長期戦闘計画でした。
結果として、太平洋戦争はこの計画に沿った形で進捗し、日本が敗れて終戦となりました。

そしてまだ日米対立する前の1934年に、アメリカは将来の布石として日本をスパイしていたのです。

旧日本陸軍の編成

今後、旧日本陸軍の部隊編成の用語、大隊、連隊、歩兵団、支隊、師団、軍等の用語が出て来ますので、陸軍歩兵師団の編成について、述べます。
一番小さい部隊単位は、分隊で、兵最大12名。
小隊は4個分隊、中隊は3個小隊、大隊は4個中隊、連隊は2~3個大隊となります。
陸軍では、補給部隊を持ち、作戦地域に投入する最低規模が、連隊となります。
もっとも小さな戦闘では、大隊とか中隊が投入された事もありますが。

歩兵団は、1個歩兵連隊を基幹とした、諸兵科連合した兵力を言います。
支隊は、諸兵科連合した兵力を分割した、本隊に対するもう一方の部隊を言います。
編成は、その都度の作戦によって異なりました。
3個歩兵連隊で、1個歩兵師団。
歩兵師団には他兵科の砲兵連隊、捜索隊、工兵大隊、輸送連隊、通信小隊が配属されます。
戦時の定数は約2万5千名でしたが、兵員が充足した部隊は、ほとんどありませんでした。
1個歩兵師団プラスアルファ、または2個歩兵師団以上で、軍となります。

ニューギニア戦と言うと、中部太平洋戦と併せて考えねばなりませんし、越智春海の専門外なのか、航空戦についても、本書では軽くしか書いていません。
次回から、本文に関わる書評を、中部太平洋戦、航空戦含め掲載します。
書評も書いていますが、分量は少しで、むしろ過酷なニューギニア戦の推移をを簡単になぞって行きたいと思います。
2週間に1回おき、全7回の掲載を予定しています。

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2012年2月23日 (木)

ビルマ決戦記(2) / 越智春海


第一章 連合軍反攻開始

書かれている内容は、第一次第二次アキャブ戦、モール要塞戦(ロングクロス作戦)、フーコン谷の激戦について書かれています。
この中で、第一次第二次アキャブ戦について、詳しく知りたかったのですが、記録が残っていないのか、詳しく書かれていませんね。
第一次アキャブ戦は、後退した日本軍に対する連合軍の攻撃で、結局連合軍は撤退するが、一時は包囲された部隊が全滅の危機でした。

第二次アキャブ戦は、悪名高きインパール作戦の支作戦で、インパール作戦に先立ち、はるか南部のアキャブで攻勢に出る事で、少しでも連合軍を引き付ける目的の作戦です。
攻勢に出て、敵を包囲しますが、連合軍が数と物量に物を言わせ、全集防御したために、包囲した日本軍の攻撃の方が再三撃退され、損害続出して、最終的に撤退しました。
この本では、桜井省三少将の進言で、戦上手の花谷正中将が決断して撤退の英断をしたかのように書かれていますが、これは間違えです。
現実には現場指揮官の棚橋真作大佐が、作戦期間中(18日)補給もなく、花谷正中将の命令を遂行すると、部隊が全滅してしまうため、独断で撤退しました。
花谷正中将は、当時の大本営には戦上手と思われていましたが、現在の評価では戦下手の上、兵隊を殴る、自決を強要するなど、パワハラの異常者に過ぎません。

モール要塞戦、フーコン谷の激戦は、様々な著作、手記があります。


第二章 インパール作戦

悪名高き、インパール作戦の内容については、こちらを参照願います。
『林』軍司令官だった、牟田口中将は、補給を無視した作戦を立て、作戦期間中約4ヶ月間、ほぼ無補給で、配下部隊を督戦します。
ぶっちゃけて言うと、飯もなく(作戦期間4ヶ月に対し携行食料20日分)、砲弾も銃弾もなく、攻撃命令ばかり唱えていた訳で、これがいかに常識外れな事かお分かり頂けると思います。
しかも進撃路は、3,000m級の峻険な、道がほとんどない山岳地。武器弾薬や携行食料を目いっぱい持つと、装備重量は30kgから60kgにもなったそうです。

普通の人なら、平地で、30kgの荷物を持って、300kmくらいの距離を約1か月徒歩行軍するだけで、めげてしまうのではないでしょうか?
しかもインパールにたどり着いて、お終いではなく、そこから戦闘して、敵の堅固な陣を突破、占領する事が作戦目的なのです。

インパール作戦について書かれた著作は多く、本書に新しい事実は書かれていませんでした。
しかし、面白いなと思ったのが、著者がインパール作戦の実施が、東条英機首相の首相延命策で実施したのではないかと言う推理です。
他にこんな考えの人はいるのでしょうか?
自分は今まで、考えた事もありませんでしたが、あり得る話だと思います。

東条英機は、事務屋の軍人で、彼が携わった数少ない作戦は、成功したものの見るべきものがない、下手な戦でした。
東条英機はこの時、内閣総理大臣、陸軍大臣、参謀総長を兼務していました。
インパール作戦は、補給を無視した、世界戦史上例を見ない稚拙な作戦で、直接参加兵力『林』軍9万が壊滅しました。
ひいては、ビルマに当時いた約20万の日本軍が、総崩れする引き金となりました。

現場の実情を知らない事業計画が、ロクな事にならないのは、会社と一緒ですね。


第三章 『昆』軍の奮闘

『昆』軍とは、日本軍最強師団と言われた18師団『菊』、同じく最強と言われた56師団『龍』を中心とした舞台で、日本軍の編成では軍となっていますが、他国なら軍団と言う規模です。
『昆』軍のミートキーナ戦、拉孟戦、騰越戦、平戞戦について書かれています。

先にインパール作戦で壊滅した『林』軍が、安全なところまで後退するまで、『昆』軍は実質2個師団4万人くらいで、数百キロを側衛した訳です。
ビルマ作戦のクライマックスとも言うべき、人智を超えた激闘です。
この時の『昆』軍の激闘は、かの有名な日系人部隊米100大隊、442連隊を遙かに上回る戦闘振りで、それに比べこの部隊参加者が、100大隊、442連隊ほどスポットライトが当たらず、日本で知る者が少ないのは、残念な事です。

この戦闘で、『昆』軍は大損害を被ります。
前線で戦った兵士は賞賛に値しますが、激闘になったのは日本軍の下手な戦がゆえです。

ミートキーナ、拉孟戦、騰越戦の日本軍の激闘を、対戦した印支軍(中国インド派遣軍)に蒋介石が、「拉猛において、騰越において、またミートキーナにおいて、日本軍が発揮した勇戦健闘ぶりを見よ。」と声明したのは、逆感状と呼ばれています。
また終戦後、『菊』が強力でタフな部隊だった事から、こんな部隊がイギリスにもあったら・・・とうらやまれたそうです。

本書で、越智春海が辻政信中佐を作戦の天才と称揚していますが、それについては自分は疑問に思います。
辻政信は、ノモンハンで下手な戦をやらかし左遷されますが、その後大本営作戦課参謀に栄転し、開戦時のマレー戦で活躍(これについても様々疑問あり)し、作戦の神様と言われました。
その後ポートモレスビー戦で、ガダルカナル戦で下手な戦を繰り返し、東条英機と喧嘩し、ビルマ軍の参謀に飛ばされました。

田中稔著「死守命令―ビルマ戦線「菊兵団」死闘の記録」に、ビルマの戦闘で、辻政信が偵察をろくにやらず、突撃命令を出したため、その部隊が大損害を被って作戦失敗した事が書かれています。
相も変わらず、ビルマで下手な戦を繰り返しています。
田中稔は、辻政信が作戦の神様と言われていた事を、信じられないと書いています。
参謀本部内では有能だったようですが、旧日本軍は、辻政信が優秀に見えてしまう程度の、将校団だっただけではないでしょうか?

ちなみに、戦後辻政信は、自身の手記を出版して、ベストセラーとなった作家でもありますが、自分の都合の良いように事実をねじ曲げ、また嘘を書き、歴史資料としての価値はないと言われています。
ミートキーナ戦での、謎の水上少将死守命令は、本書を読むと、ミートキーナ守備隊主力、丸山連隊長が、『昆』軍の参謀だった辻政信と同期だったためとも読めますね。


第四章 崩れ行く日本軍

ここからビルマの日本軍は、総崩れで終戦まで後退に後退を重ねます。
実はこの先の戦史を詳しく書いた書籍は、多くありません。
その意味では、その先のビルマ戦の流れを書いた本書は、ある意味貴重と言えます。

ビルマ方面軍司令官が、河辺中将から木村兵太郎中将に代わります。
牟田口中将の上官、河辺中将は、インパール作戦の責任を取って交代させるべきでしょうが、実は何の非もとがめられず、中部防衛司令官に異動し、その後大将に昇進し、航空総軍司令官、陸軍航空本部長を歴任します。
河辺中将は、陸軍大学の成績も良かったのでしょうね。
エリートコースを歩み、出世順位も高かったのでしょうが、軍務でリーダーシップを発揮した事はなく、戦争中も大過なく過ごしただけのようですね。
部下は、屍の山を築いていたと言うのに、いい気なものです。

新司令官、木村兵太郎中将は、東条英機の信認が厚かった人で、東条英機の失脚の後、ビルマ方面軍に飛ばされて来た、事務屋の将軍です。
東条英機の信認が厚かった木村兵太郎も、フィリピンに行った富永恭次中将も、東条英機の失脚の後、前戦に出され、両者とも後に敵前逃亡します。
木村兵太郎中将は、大本営参謀本部第1部長だった田中新一を、大本営から追い出す事を画策したと言われていますが、皮肉にもビルマ方面軍の参謀長は、田中新一中将が任命されます。

ビルマ方面軍の参謀も、総入れ替えになったそうですが、実戦を知る者はいなかったようです。
ビルマ方面軍の上位組織、南方総軍から指導を受けた通りに、机上の作戦計画、「盤作戦」を立案します。
当時、1個師団(2万人弱)の守備範囲は、定数の師団で6kmと言われていたと、何かの本で読んだ事があります。
この作戦の杜撰(ずさん)さは、例えば壊滅状態の『林』軍3個師団(推定1.5万弱)に、200kmの範囲を守備させ、かつ制空権があり、兵力も装備も格段に優勢な、連合軍を攻撃する計画なのです。

この作戦立案は、陸軍で優秀と目されていた、田中新一中将の立案です。
ちなみに、日本軍のほとんどは歩兵なのに対し、イギリス軍は歩兵ですらある程度自動車化され、戦車を先頭に攻撃しているのです。
作戦立案時に、敵に追い立てられ行方不明の部隊が多くあり、各部隊大損害を受けていて補給もなく、銃すら持っていない兵士多数だったのです。
何を基準に、作戦を立てたのでしょうか?
田中新一中将は、元大本営参謀本部第1部・・・太平洋戦争の前半の戦争の作戦指導をして来た人です。

例えば、会社で言うと、現場を無視して、数字ありきで策定したプロジェクトとか、事業・・・みたいなものだと思って下さい。
そんなクソプロジェクトなんて、やりたくもありませんが、仕事で人は死にません。しかし、戦争で人は死にます。

当然、こんな作戦は成功するはずもなく、命令を守って攻撃しますが、すぐに頓挫。
その後、守るのもおぼつかず、血で血を争いながら、圧迫されて行きます。
そうこうしている内、穴だらけの戦線をすり抜けて、機械化された大部隊が戦線後方のメイクテーラになだれ込み、占領してしまいます。
この部隊を軽視したビルマ方面軍は、1個連隊(約2千人)を攻撃に差し向けますが、焼け石に水で、すぐに大損害を受け消滅。
ビルマ方面軍司令部がある、ラングーンまで遮るものはありせん。

まだ、命の危険にさらされている訳ではありませんが、ここで木村兵太郎中将以下、ビルマ方面軍幕僚がラングーンから敵前逃亡します。
せめて、撤退命令でも出してから逃げれば良いのに、そのまま逃亡するから、四分五裂になった日本軍は、ビルマ方面軍が逃亡先で連絡がつくようになるまでの1週間以上に渡り、退くに退けず、死傷者続出します。
ビルマ方面軍の逃亡が、直接原因ではありませんが、この時期から雨季で増水したシッタン川の渡河作戦にかけて、最も多くの死傷者が出ます。

ビルマ方面軍の兵士は、そのまま終戦まで、タイ国境近くまで追い立てられ、終戦を迎えます。

越智春海は、河辺中将の頃もビルマ方面軍の作戦も非難していますが、木村兵太郎中将に代わってからの、ビルマ方面軍の作戦については、それはもう辛辣に批判しています。
越智春海に限らず、ビルマ方面軍の逃亡は、現在でも弁護する人が誰もいないくらい、ボロクソに言われています。

本書に書かれたビルマ作戦の全期間に言える事ですが、敵を下算し、積極作戦の旗印に、あたら勇敢な兵士を死に追いやり、司令官も、作戦立案した参謀も、作戦を失敗した責任を取りません。
戦場の兵士は、超人的な活躍をしますが、下手な作戦が故に屍の山を築きます。

果たしてこれは、太平洋戦争だけにとどまる話なのでしょうか?
現在のどこかの会社の、無謀なプロジェクトや事業に、似たような事が起こっても、驚きません。

ビルマ戦役全体を通して、約30万人(大部分陸軍)の兵士がビルマにいて、日本に帰還出来たのは、わずか12万人。
「将、功ならずして、万骨枯る」と言うには、あまりに多くの若者が亡くなりました。
自分は、戦争のない平和な時代に生まれて、本当に良かったと思います。

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2012年2月21日 (火)

ビルマ決戦記(1) / 越智春海

このブログ初の、戦記物の読書レビューです。
実は自分、かなり戦記物は読みます。

戦記物を読むきっかけは、小学校3年の頃親にねだって買ってもらった、タミヤのタイガー(ティーゲル)戦車のプラモデルです。
それ以来、楽器と出会う中学2年まで、自分の小遣いは、プラモデルに消えました。
時によって、戦車ばかりでなく、飛行機や船にもハマりました。
しかし、地上兵器は結構凝って、中学の時にはミニジオラマも作って、飾っていましたね。

プラモデル作りに平行して、その背景としての戦記を読むようになり、プラモデル造りは卒業しましたが、戦記は今だに読んでいます。
戦記は、特に体験記なんかを読めば読むほど、絶対に軍隊にも入りたくないし、戦場にも行きたくないですね。

日本は、勝てるはずのない太平洋戦争ですが、その上さらに下手な戦(いくさ)をして、多くの死傷者を出しました。
太平洋戦争での、軍隊の戦死者がおよそ174万人、民間人を含めると213万人も死んでいます。
それに対して、アメリカの戦死者は9万人、イギリス8万人。
結果論と言われるかも知れませんが、単純な、戦死者数の比でも、下手な戦(いくさ)と言わざるを得ないですよね。

ちなみに、第二次大戦ヨーロッパの場合はと言うと、ドイツの軍人の戦死者が325万人、イタリア38万人、旧ソ連611万人、イギリス36万人、アメリカ45万人、フランス24万人。
ドイツ、イタリアの合計が363万人、旧ソ連、イギリス、アメリカ、フランスの合計が714万人。
どう言い訳しても、日本が戦下手な事は、お分かり頂けますでしょうか?

戦記物を読む際に、注意する事は・・・戦記物に限りませんけどね、書かれている事が、必ずしも事実だと信じないで読む事です。
善意で言うと、執筆者の誤解、記述ミスがありますし、悪く言うと執筆者によっては、事実の曲解は可愛い方で、ぶっちゃけウソを書いている事です。

これは上級指揮官の手によるものである場合、特に顕著に曲解やウソが多いです。
そして太平洋戦争の公刊戦史とも言うべき、「戦史叢書」でも、執筆者やインタービューした相手が上級指揮者で、どこまで真実なものやら。

どうして、曲解やウソが多いのか?「戦史叢書」では、下手な戦(いくさ)をした本人にインタビューしていまして、下手な戦(いくさ)でしたと認める潔い人が、どれくらいいるのか、考えれば分かる事でしょう。

では、書かれた事をどうやって、真実かどうか見分けるのか?
これも、戦記物には限りませんが、なるべく多くの関連書籍を付き合わせ、クロスチェックする以外に方法はありません。
しかしその際に、全ての書籍が、等しく「戦史叢書」を引用していたら、目も当てられませんけどね。

さて、ビルマ決戦記のレビューに入りましょう。
著者の越智春海は、太平洋戦争中、軍人でしたが、地獄のビルマ(現ミャンマー)戦の従軍者ではありません。
「ジャワは天国、ビルマは地獄、死んでも帰れぬニューギニア」と当時言われたそうですが、第5師団の将校として、東ニューギニア戦の初期に、比較的平穏なウエワク、マダン付近にいて、激戦になる前にニューギニアを離れ、平穏なセラム島に駐留していたそうです。

当時日本と中国(蒋介石率いる中華民国)と戦争をしていまして、中国を支援していた連合国側からの補給路が4つありました。
香港ルート、ベトナムルート、ビルマルート、シルクロードルート。
シルクロードルートは、ソ連からの援助で、1941年に独ソ戦が始まって以来、ソ連からの援助は途絶えました。
ベトナムルートは1940年9月、日本軍の仏印進駐で途絶え、香港ルートは、太平洋戦争の開始後日本陸軍が攻撃し、1941年12月末には香港を占領しました。
この仏印進駐が、太平洋戦争の遠因と言われていますね。

1941年12月8日、太平洋戦争発生後、陸軍の作戦で、ビルマから中国への補給ルート切断し、中国を屈服させるため、1942年4月にビルマを占領しました。
これにより、ビルマルートで、中国を支援する事が出来なくなり、当初は空路から、後に人跡未踏のジャングルを切り開いた、レド公路が作られ、新たな中国への補給路となりました。

このビルマ決戦記は、日本軍のビルマ侵攻後、1942年秋以降のビルマの戦闘について、終戦までの流れをカバーしています。

実は、自分の知る限り、この頃のビルマ戦全体をカバーした作品は、「戦史叢書」の前に公刊戦記扱いだった服部卓四郎著「大東亜戦争全史」しかありませんでした。
その意味で、貴重だなと思い、購入して読みました。
ちなみに自分、「戦史叢書」は持っていませんが、「大東亜戦争全史」は持っています。
ビルマ戦に参加した兵士の手記も、他の戦域に比べ豊富で、自分は可能な限り目を通しています。

本書を読んで気が着いたのですが、作者越智春海氏が、本書を書くにあたり参考にしたのは、「戦史叢書」や「大東亜戦争全史」、「中国ビルマ戦記」、「回想ビルマ作戦」あたりがメインと思われます。
戦史叢書」は、東京都の大きな図書館(例えば東京都立図書館とか国会図書館とか)に行けば見れますが、個人購入するのは現在では困難です。
大東亜戦争全史」、「中国ビルマ戦記」は、中古のみ入手出来ます。
回想ビルマ作戦」は、新館で入手可能です。

これらのいずれの本も、ビルマ作戦では引用される定番の著作なのですが、簡単に信用ならないと言うのは、前述の通りです。

これらの資料を参考にして書くなら、自分でも書ける訳で、そこに元軍人、越智春海の軍隊経験を加味して書いています。
しかも面白い事に、元陸軍軍人でありながら、下手な作戦とか、ダメな司令部(または司令官)をこっぴどく批難して書いています。
これは、他の旧日本陸軍の元軍人の著作にはない特徴です。

これらは他人事ではなく、会社組織は、軍隊を参考に作られておりますので、会社組織に例えて読むと、現在でも心に突き刺さる事が多々あります。
会社の仕事で人は死にませんが、戦場では人が死にます。

読んだ結論から言うと、越智春海の視点については、面白いなと思いました。
当たり前ですが、自分には軍隊経験はないですからね。
しかし、目にする事が可能な本を元に書いているので、自分にとって目新しい情報はありませんでした。

次回は、本書の各章について、思うところを書きます。

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