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2015年3月25日 (水)

ニューギニア決戦記(5) / 越智春海


兵科記号について

文章の理解の一助にと、図を多用しています。
ニューギニア戦は、登場部隊数も多く、兵科(軍内で細分化された部隊の専門職)も多岐に渡ります。
図に部隊名を入れて行くのは煩雑で、またごちゃごちゃして見にくくなってしまいます。

軍隊では昔から、兵棋演習(図上演習)の際、兵科記号を用いていました。
現代では、軍の作戦を図示する場合、NATO軍の標準化された兵科記号を用いるのが一般的なので、以後これに倣い図示して行きます。

部隊規模に関しましては、前回の記述を参考に願います。

前回の記述は日本陸軍に関するもので、アメリカ軍、オーストラリア軍には以下の例外があります。

1.「師団」の上位組織は「軍団」、「軍団」の上位組織は「軍」
2.オーストラリア軍はイギリス式編成ですので、大隊の上位組織は「旅団」、「旅団」の上位組織が「師団」
3.アメリカ軍海兵部隊は部隊番号に「M」をつけています
4.可能な限り部隊番号をつけていますが、以下の場合部隊番号をつけていません
・独立部隊
・集成部隊(つまり寄せ集め部隊)
・部隊番号が不明
・独立部隊を除く、日本軍、アメリカ軍の大隊以下、オーストラリア軍は中隊以下
5.兵科記号で、機械化されているかされていないかの区別がつけられますが、煩雑になるので割愛しました
・日本軍は機械化されていません
・アメリカ軍、オーストラリア軍は機械化されています
6.騎兵部隊は、この時代には馬には乗っておらず、歩兵として戦いました
7.参考までにアメリカ軍の歩兵部隊の規模は以下の通りとなります
・師団 約15,000人
・連隊 約3千人
・大隊 836人
8.参考までにオーストラリア軍の歩兵部隊の規模は以下の通りとなります
・師団 13,000-18,000人
・旅団 約3,500人
・大隊 800-900人



第五章 ダンビール西岸の攻防

サラワケット越え

サラワケット越えのルート

9月6日、ポポイにも、ナザフ平原を占領され、退路を絶たれたラエ、サラモア地区の部隊は、敵部隊を避け、サラワケット山脈の道なきジャングルを越え、ニューギニア北中部に退却する命令を受けました。
そのため、退路のラエを確保しなければ、部隊は全滅です。
41師団の歩兵団長、庄下亮一少将がラエ地区にいて、部下は大部分ラエ、サラモア地区の草山陣地、手元には200名しかいませんでした。
この時ラエには他に、2千人の兵員がいましたが、大部分が後送を待つ傷病兵で、戦闘が出来るのは辛うじて300名。
これに、ラエに取り残された、舟艇部隊に銃を支給して、ラエ東西の要地に着陣させました。
中野師団長直ちに、庄下少将の部下、238連隊の一部と神野大隊(80連隊)をラエに派遣し、防衛強化しました。
これでも、せいぜいラエ防衛部隊は千名。

敵の攻撃は慎重で、10倍以上の兵力を要しながら、拠点を構築して少しずつ進出して来ました。
庄下少将のラエ防衛隊は、傷病兵まで銃を取り戦いましたが、敵が本気で攻めて来たら、守り切れなかったでしょうね。
本文にさらりと、海岸を守っていた海軍の第7根拠地隊数百名は、全滅と書かれています。
負け戦の退却行になると、人はエゴイストになります。
ブナ地区の撤退の時のように、敵中に取り残されたのでしょうか?
全滅したので、何も語る術はありません。

本文では後に書かれていますが、9月13日連合軍の航空部隊、戦爆連合(戦闘機と爆撃機の混成部隊)が来襲し、地上にあった航空機50機が破壊されました。
8月17日の時でさえ、壊滅的な損失だったと言うのに地上破壊とは・・・戦訓から何も学ばなかったのでしょうか?

9月14日には、ラエ、サラモア地区の全部隊、8.650名が、ラエに終結出来ました。
取り残された部隊のエピソードはありませんので、ここまでは損害を受けつつも、整然と退却出来たのでしょう。
改めてこの部隊編成を述べますと、51師団の残余(66、102、115連隊)、41師団の41歩兵団(238連隊基幹)残余、20師団の80連隊の神野大隊残余です。
部隊指揮官は、51師団の中野中将。
ここから、ラエ、サラモア地区の部隊は、千古未踏のサラワケット山脈の道なきジャングルを越え、キアリへ抜ける直線約100km、高低があるので実質500kmの退却行をします。

戦局ダンピールへ

サラモア地区からの撤退と連合軍の攻勢

この時点、次から次へと繰り出される、連合軍の攻撃に直接対応するため、18軍の配置は伸び伸びになっていました。
・ウエワク
 41師団(237、239連隊)
・サラワケット越えで行軍中
 51師団(66、102、115連隊)、41師団41歩兵団(238連隊基幹)、20師団80連隊神野大隊
・フィンシハーフェンに向け移動中
 20師団80連隊(神野大隊欠)+砲兵大隊、20師団79連隊
・フィンシハーフェン
 41師団41歩兵団の一部(238連隊基幹の1個大隊程度)
・51師団のサラワケット越え支援のためマーカム川左岸を進撃中
 20師団中井支隊(78連隊基幹)

9月19日、中井支隊が道なきジャングルを進撃中、カイビアットで、約1個師団のオーストラリア軍と遭遇しました。
この時、中井支隊にはオーストラリア軍の意図は分かっていませんでしたが、実はマダンに向け機動中だったのです。
中井支隊は、当初目的通り、51師団のサラワケット越えを容易にするため、この地点でオーストラリア軍を食い止めるべく、防御に付きました。

連合軍のアント岬上陸

9月22日、20師団主力が到着する前、オーストラリア軍9歩兵師団が、フィンシハーフェン北方のアント岬に上陸しました。
大本営、第8方面軍、18軍の虚を突いて、連合軍が戦線背後に上陸したため、現地軍の18軍では、フィンシハーフェン-マダン間の防御は、何もなされていませんでした。

フィンシハーフェンには、238連隊の1個大隊千名弱しか戦闘部隊は、ありませんでした。
またフィンシハーフェンの約4km南方に、80連隊の1個大隊がありました。
飛行場を守っていた238連隊の1個中隊(定数で200名前後)は、有効な陣地構築をしていた形跡はなく裸状態で、上陸したオーストラリア軍との隔絶した戦力差で、たちまち玉砕してしまいました。
他には山田少将が指揮する、第1船舶司令部があり、それまでラエ、サラモア地区の兵の増援、負傷兵の後送、細々と補給を実施していました。
海軍の81警備隊(戦闘部隊ではない)400名を含め、兵数4千名くらい、額面兵数でオーストラリア軍の1/3、実質1/10の兵力差でした。

この地区の上位指揮官、本来は戦闘部隊指揮官ではありませんが、山田少将のもと、陸軍はアント岬西方、サテルベルク高地に集結しました。
海軍は当初、オーストラリア軍と正面から対峙しましたが、少し抵抗して、陸軍に合流しました。
18軍から、上陸部隊への攻撃命令が届きましたが、私見では山田少将が本気で命令を実行しようとしていたように思えませんね。
あるいは、船舶部隊の少将閣下ですから、これまでは後方部隊で敵と対峙する経験などなく、腹もくくれず、混乱していたのかも知れませんが。

上陸部隊は、一般的には、上陸直後が最も脆弱で、その間に攻撃すれば、海に追い落とすチャンスがあります。
しかしアメリカ軍は、敵の反撃を封じるため、制空権、制海権を活かし、艦砲射撃や航空隊の支援によって、敵の反撃を防ぐ体制を取っています。
上陸部隊が、防御線を構築し、橋頭堡を築いた後は、海に追い落とすためには、敵に倍する兵力と、かなりの損害を覚悟しなければなりません。
つまりは当時の日本軍にとって、実質実現不可能な事です。

山田少将が、反撃開始したのは、上陸から5日も経った9月27日です。
反撃の主力部隊の1つ、80連隊の合流は遅れたものの、それでも9月24日には、山田少将に合流出来たのに・・・です。
本書では、どのような反撃を実施したのか書かれていません。
もしかすると命令のため形式だけ反撃した可能性もありますが、その後サテルベルク高地を守るのが精一杯となります。

20師団主力が、道なきジャングルを行軍して、フィンシハーフェンに向かっていましたが、18軍としては、フィンシハーフェン奪回を厳命します。

戦争指導方針の変遷

当時の大本営、第8方面軍の判断としては、ソロモン諸島方面は前線に4~5個師団、後方に8個師団、ニューギニア方面は前線に3個師団、後方に2~5個師団と推定していました。
敵航空戦力は、ソロモン諸島方面600機、ニューギニア方面700機と推定していました。
対する18軍は額面戦力3個師団、その内3個師団とも傷付き、実質2個師団あるかないか。
海軍航空隊は、ニューギニア方面に派兵する余裕なく、陸軍航空隊が多い時で70機程度しかありませんでした。
越智春海はこの情報に、これだけ我彼の戦力が隔絶して、どうして連合軍の反攻を想定していなかったか、嘆きます。
常識的に考えて、日本軍に数倍する戦力を、連合軍が無駄に遊ばせておくのは、考えられない事です。

日本軍は、ノモンハン事件で、ガダルカナルで、ニューギニアで、この後ビルマで、フィリピンで、敵情を無視し、自分の都合の良いように願望で敵情を判定しました。
つまりは、脳がチョコレートなのか?と思うほど、敵情判断が甘かったのです。
この内、フィリピン以外は、辻政信が関わっているのは、興味深いところです。
敵は、こちらの都合の良いように待ってくれるはずもなく、常に願望は覆され、日本軍の想定外の最悪の事態が引き起こされました。
上級司令部の誤着は多く、それは前線の兵士の血で贖(あがな)えさせられたのです。

9月30日、大本営から第3段の戦争指導方針が発表されました。
「帝国陸海軍は密に協同し、南東方面の要害に於て、来攻する敵を撃破して極力持久を策し、この間すみやかに豪北方面より中部太平洋方面要域にわたり、反撃作戦の支撐(しとう)を完成し、かつ反撃戦力を整え、来攻する敵に対し徹底的反撃を加え、つとめて事前に之を覆滅し、その戦意を挫折しむる」

絶対国防圏と前衛防衛線

日本語が難しいですが、つまり陸軍は、ラバウルを前衛防衛線と見なし、ニューギニア戦線も前衛防衛線に格下げ、後方に絶対国防圏の防衛線を築くと言う事です。
この方針を受けた第8方面軍のカバーする戦域は、全て前衛防衛線となり、「極力持久を策し」の一文から、敵が攻めて来たら、最後の一兵まで死守せよと読める訳です。
第8方面軍の今村司令官は、この方針を受け、以下の方針を18軍に下達しました。
「各兵間、各部隊の後退は絶対に認めず、占拠地で必死敢闘、敵に打撃を与え、重深的総合戦果により全般的持久任務を達成せんとす」
今村司令官の考えでは、この時点では、中部太平洋に連合軍が抜けないよう、フィンシハーフェンとラバウル島は、死守するつもりだったのです。

かなり強い口調で、現在の戦場で、死ぬまで戦えと言っているようですが、そこは軍隊、そんな事をしても意味はありません。
もちろん退却と言う言葉は日本軍にはありませんが、部隊が緊急事態に陥った時、転進と言う都合の良い言葉があります。
戦線後方に、転進を命じれば良いのでした。

フィンシハーフェン攻撃に失敗し、攻撃発起地点のサテルベルク高地に戻り、守勢に回った山田少将以下、4千名の将兵は、海岸はオーストラリア軍に取られ、内陸地なので補給もなく、食糧確保のため夜間出撃(イモ掘り出撃)に出ざるを得ませんでした。
フィンシハーフェンは補給基地な訳で、もともと食料、弾薬とも、集積されていたはず。
戦史叢書には、何も書かれていないようですが、越智春海は行間を読み、上陸部隊にやすやすと奪取されたと、見抜いています。

フィンシハーフェンの死闘

10月10日、フィンシハーフェン攻略を厳命され、19梯団に分かれ、道なきジャングルを行軍して来た、片桐師団長率いる20師団主力の先陣が、ソング川方面に到着しました。
片桐師団長は、もしかすると旧日本陸軍初の、上陸した部隊の海岸に、こちらも上陸作戦を行う、逆上陸と言う作戦を立てます。
この作戦発案について、越智春海は、片桐師団長の発想力をほめています。
しかしそもそも、上陸したオーストラリア軍の方が、倍以上の兵数優勢なのに、陸上攻撃部隊と、逆上陸部隊に、部隊を2分するのが、果たして現実的な作戦だったのでしょうか?

フィンシハーフェンで、船舶の多くを失った事もあるでしょうし、また20師団主力と言っても、額面では79、80の部隊欠員のある2個連隊の兵力でしたの。
逆上陸部隊に当てたのは、わずか1個中隊(184名)。
10月16日深夜に、この1個中隊が、オーストラリア軍の背後、アント岬に逆上陸しました。
本書には書かれていませんが、実は日本軍将校が作戦計画を失くし、それが連合軍に渡っていたため、実は連合軍は逆上陸撃退のため海岸で待ち構えていました。
オーストラリア軍の記録では、逆上陸した部隊の一部が勇戦して、旅団司令部に突入して、一時海岸が大混乱となった事を伝えています。
しょせん1個中隊では、いかんともし難く、生存者7名ですので、旅団司令部に突入した殊勲の部隊についても、何も伝わっていません。

本来なら、逆上陸に呼応して、陸上攻撃を実施するのが、作戦の常道と思われますが、奇妙にも79、80の両連隊は、攻撃に間に合いませんでした。
想像するに、攻撃準備に必要な時間を無視して、攻撃命令が拙速に発せられたのではないでしょうか?
逆上陸が、戦術上画期的なものだったとしても、奇襲効果を活かせず、さらに逆上陸部隊は事実上見殺しになりました。
逆上陸に1日遅れの10月17日深夜、79、80の両連隊が、カテカ攻撃に成功して、さらに戦果拡大に努めましたが、攻撃は行き詰まりました。
10月19日には、20師団の力が衰え事実上攻撃停止、そして翌日にはオーストラリア軍の反撃を受け、さらに20師団主力の背後にも上陸しました。

本書には書かれていませんが、この時オーストラリア26旅団と、マチルダ戦車1個中隊が来ました。

マチルダ戦車

ジャングル内で、我彼入り乱れる乱戦になり、孤立した20師団は、急速に損害が増えて行きました。
攻撃中止命令は、遅れる事10月25日に発せられ、20師団の残余は、攻撃地点からサテルベルク高地に転進しました。
この時の20師団将兵は、食料もなく、やせ衰え幽鬼のようだったそうです。

10月20日頃、中野師団長が指揮するラエ、サラモア地区の部隊は、途中食料もなく、悲惨な退却行をして、ニューギニア北岸のキアリには3/4の6,450名がたどり着けました。
しかし戦闘任務に就ける兵は、2千名そこそこ。
残る4千名強の傷病兵は、本来なら後送、休養させるのですが、この時の戦況は、風雲急を告げていました。

安達二十三第十八軍司令官

軍隊では、将軍手前の大佐ですら、兵士から見ると神様のような雲の上の存在に思えたそうですから、ましてや将軍になるなど、ごく一握りのエリートのみです。
ただでさえ旧日本軍は、兵士と将校の扱いに大きな差別がありましたが、それが将来将軍になろうかと言う人なら出世も全然違い、一般将校とはとんでもない格差がありました。
しかし日本の将帥は、とかく督戦だけして、後方で安寧としている人がいました。

ビルマ決戦記でも書きましたが、エリート中のエリート、ビルマ方面軍司令官、木村兵太郎中将が、ビルマで身の危険を感じると(実はそんなに危険じゃなかった)、兵を置いて敵前逃亡しました。
木村兵太郎中将と共に、当時首相で参謀本部長だった東条英機大将の腹心で、大本営で権勢を振るった富永恭次中将は、東条英機大将失脚後、前線に追いやられます。
フィリピン戦の航空部隊を統括する立場、第4航空軍司令官です。
「自分も後から逝く」と、配下の部隊に特攻を強要し、部隊が通常攻撃で戦闘させて欲しいと言うと、「命が惜しいのか?」と面罵しました。
特攻は、現在ではほとんど戦果がなかった事が分かっています。
無為に、配下の航空部隊を潰して全滅状態にして、いざマニラにアメリカ軍が迫ると、部下を置いて台湾に逃亡しました。

しかし安達二十三第18軍司令官は、アメリカ軍の制海権下を命をかけて、最前線に何度も足を運びました。
この時も危険を冒し、キアリに、フィンシハーフェンに足を運びました。

越智春海は、18軍の主力部隊、20師団に、何故のんびり道路作りなどさせたのか、非難します。
道路造りより先に、戦略拠点に部隊を配置するのが先ではなかったか・・・と。

越智春海の言う事は正論ですが、後知恵の感がないではありません。
兵力は多くとも、士気、装備に劣る中国軍を、弱いものいじめのように追い散らしていた日本軍が、太平洋で初めて、本格的近代軍隊と戦闘をしたのです。
当時、ほとんどの日本陸軍将校は、装備がはるかに勝り、物量、鉄量、補給力が日本軍とは桁違いのアメリカ軍との戦闘を、想像もしていなかったはずです。

第二十師団の死闘

フィンシハーフェンの日本軍が強大で、戦意旺盛なので、放置しておけないと思ったか、攻撃準備を始めました。
20師団は、攻撃準備に気が付かなかったそうです。
11月16日、連合軍が、20師団の占拠するサテルベルク高地に、猛砲撃、猛爆撃を加えて来ました。
この章で、30トン戦車と言う記述が出て来ますが、これが前述のマチルダなのか、米軍から供与された可能性があるM3中戦車なのかM4中戦車なのか分かりません。
ちなみにヨーロッパでは並みの戦車だったM4シャーマンは、対戦車力に劣る日本軍には重戦車と呼ばれ、なかなか破壊出来ないので、忌み嫌われていました。
マチルダは、M4シャーマンと同じくらいの装甲ですので、同じく破壊するのは困難だったでしょう。

アメリカM3中戦車

アメリカM4中戦車

11月22日、20師団は予定していた攻撃を繰り上げ、サテルベルク高地から出て逆襲します。

日本軍では攻撃偏重で、じっと耐えて防御するのは卑怯と、軽んじられました。
この時、連合軍と日本軍では、戦力に隔絶の差があり、攻撃するなど自殺行為ではなかったかと思います。
日本軍の防御戦闘は頑強で、アメリカ軍は固く守った日本軍陣地の攻撃を、死傷者が多く出るので嫌いました。
それなのに日本軍は陣地を抜け出して、生身の体をアメリカ軍の銃前にさらしたのです。

第4航空軍の残余も、11月23日に35機、同月26日に47機支援に来ましたが、焼け石に水だったでしょう。
ニューギニア西部諸島、豪北地区に第2方面軍が編成され、支援のため、なけなしの7飛行師団を転出する事になっていました。
豪北地区も最前線には違いありませんでしたが、ウエワク地区に比べれば平穏でした。
作者の越智は、航空部隊の使用法を批難していますが、自分は反対意見です。

軍隊は定数で最も力を発揮するよう、編成されています。
航空部隊は特に、数が減ると、加速度的に戦力が低下します。
旧日本軍の航空部隊も例外ではなく、戦闘で損耗した部隊は後方に下げ、補充して再編成し、訓練をして再び前線に赴くのが常道です。

優秀な航空部隊は一朝一夕に出来るものではなく、パイロット1人養成するのに、かなりのコストがかかります。
それが戦闘に何度も投入すれば、いとも簡単に損耗(つまり多くが戦死)してしまいます。
損耗する事で戦力低下し、余計に戦闘で損耗しやすくなります。
養成に時間のかかる航空部隊は、少しアタマのある上級司令部なら、あたら損耗で無意味に潰したくないと考えるでしょう。

旧日本陸軍では、歩兵は補充もなく、戦力を損耗しながら戦い続ける事が多かったですが、このような部隊は本来の戦力を発揮出来なかったはずです。
作者の越智が、戦力化に時間がかからない歩兵と航空を同じレベルので考えるのは、いかがなものでしょうか?
航空音痴と言わざるを得ません。

第4航空軍では、第2方面軍支援の名目で、損耗した旗下部隊を豪北地区に下げ、補充と再訓練して、ウエワク地区に再投入していたように思います。

20師団のフィンシハーフェン退却

20師団は勇戦したようですが、日本軍側の主観であって、米軍側がどう捉えていたか不明です。
前述の通り、堅固な陣前から飛び出し、飛んで火にいる夏の虫だったかも知れません。
攻撃開始から4日後の11月26日には、20師団の攻撃が行き詰まり、また逆襲して来た米軍に包囲され、全滅しそうな情勢でした。
攻撃を諦め、サテルベルグ高原の防衛をして、大損害を受けていた80連隊(三宅大佐)を前線から下げました。
そのため翌27日には、79連隊(林田少将)に攻撃の矛先が向き、粉戦状態となり、包囲される懸念がありましたが、27日夕刻には無事戦線離脱出来ました。
28日には20師団が、ワレオ、ノンガカコの線に再集結しました。
以後、この線を20日間に渡り、血みどろの防衛をしました。

上位司令部の第8方面軍が、死守の方針だったため、18軍で後退命令を出すわけにも行かず、大損害を被った20師団もフィンシハーフェンから後退する事は出来ませんでした。
これはつまり、ただでさえ戦力低下した20師団が、日々戦闘により損耗して行くと言う事です。
旧日本陸軍では、このような無駄な戦闘による戦死が頻繁だったのです。

ニューギニアのフォン半島の情勢

同じ頃、フィンシハーフェン西方400kmのフィニステル山脈で、20師団の78連隊(中井少将)が、マダンへ向かって攻撃して来たオーストラリア軍第7師団を防いでいました。
中井支隊が崩れると、20師団は後方連絡線上にある、マダンを取られてしまいます。
10月にオーストラリア7師団は力攻し、中井支隊は無理せず後退しながら敵を防ぎました。
フィニステル山脈西端の歓喜嶺付近が、中井支隊の最終防衛線で、一時粉戦状態になりましたが、12月には戦線を安定させました。

中井支隊長は、敵が活発化して攻勢が近い事を感じ、ウエワクから前線へ急行中だった41師団239連隊と共に、機制を制して攻撃しました。
オーストラリア軍には意外な攻撃だったようで、壊乱して退却して、以後1ヶ月くらい反撃さえしなくなったそうです。
中井支隊長は後に、片桐師団長戦死後、20師団長になりますが、ニューギニア戦の期間中、唯一連合軍におくれを取らなかった優秀な将帥です。

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