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2015年3月30日 (月)

ニューギニア決戦記(7) / 越智春海


兵科記号について

文章の理解の一助にと、図を多用しています。
ニューギニア戦は、登場部隊数も多く、兵科(軍内で細分化された部隊の専門職)も多岐に渡ります。
図に部隊名を入れて行くのは煩雑で、またごちゃごちゃして見にくくなってしまいます。

軍隊では昔から、兵棋演習(図上演習)の際、兵科記号を用いていました。
現代では、軍の作戦を図示する場合、NATO軍の標準化された兵科記号を用いるのが一般的なので、以後これに倣い図示して行きます。

部隊規模に関しましては、前回の記述を参考に願います。

前回の記述は日本陸軍に関するもので、アメリカ軍、オーストラリア軍には以下の例外があります。

1.「師団」の上位組織は「軍団」、「軍団」の上位組織は「軍」
2.オーストラリア軍はイギリス式編成ですので、大隊の上位組織は「旅団」、「旅団」の上位組織が「師団」
3.アメリカ軍海兵部隊は部隊番号に「M」をつけています
4.可能な限り部隊番号をつけていますが、以下の場合部隊番号をつけていません
・独立部隊
・集成部隊(つまり寄せ集め部隊)
・部隊番号が不明
・独立部隊を除く、日本軍、アメリカ軍の大隊以下、オーストラリア軍は中隊以下
5.兵科記号で、機械化されているかされていないかの区別がつけられますが、煩雑になるので割愛しました
・日本軍は機械化されていません
・アメリカ軍、オーストラリア軍は機械化されています
6.騎兵部隊は、この時代には馬には乗っておらず、歩兵として戦いました
7.参考までにアメリカ軍の歩兵部隊の規模は以下の通りとなります
・師団 約15,000人
・連隊 約3千人
・大隊 836人
8.参考までにオーストラリア軍の歩兵部隊の規模は以下の通りとなります
・師団 13,000-18,000人
・旅団 約3,500人
・大隊 800-900人



第七章 安達司令官の最後

変更された総軍命令

18軍残余、5万5千の内訳は、20師団6割、41師団8割、51師団3割の充足度。

戦闘部隊は、10割の充足度で最大戦力を発揮するよう、編成されています。
ぶっちゃけ仕事に例えると、10でかつかつで仕事をしているのに、8人に減らされる、6人に減らされる、3人に減らされると考えて頂けると良いでしょう。
8人で10人分の量の仕事は、出来なくはないかも知れませんが、長期間に渡ると疲弊します。
6人の場合は、10人の仕事量を継続してこなすのは、不可能ですね。
仕事の成果を減らさなければ、機能しないと思います。
3人の場合は、戦力として期待出来ない状況です。

ホーランジアは遠いので、まずはアイタペ奪回作戦を企図しました。
20師団、41師団を主として攻撃兵力としましたが、それでも兵力不足で、ウエワク防衛任務の51師団の一部も攻撃部隊としました。

20師団の攻撃準備前進は、計画通り進みましたが、補給の確保で頓挫しました。
一部は舟艇による輸送、またウエワク-アイタペ間に60kmの道路設営をして補給路とする計画でした。
舟艇による輸送は、途中に適当な隠匿泊地、揚陸地点がなく、せいぜいウエワクから60km先までで、アイタペまでの移送は困難。
5月から6月のスコールの気まぐれな天候により、道路設営も遅延しました。
そのため人力で、補給物資を運ぶ事にしましたが、戦闘部隊まで担送部隊に組み込まざるを得ず、戦闘力を減じました。

敵は、こちらの攻撃を予測しており、海岸に戦闘艦艇が現れては、砲撃して行きました。
擬装が十分でなかったか、ウエワクの食料の大部分が空襲でやられてしまいました。
そのため部隊の食料は、1/3定量(通常支給食料の1/3支給)となり、ますます疲弊しました。

当初、6月上旬作戦実施予定が、準備が間に合わず延期となりました。

6月21日、南方総軍からの電報で、第2方面軍旗下から南方総軍直属となり、任務は現在地の持久となりました。
これはアイタペ攻撃をしなくとも良いと言う事です。

攻撃準備が完了しかけていて、ここで中止すると士気が瓦解する恐れがありました。
またせっかく前進させた食料、武器、弾薬を回収するのは不可能な事から、安達司令官はあえてアイタペ攻撃を実施する事にしました。
この攻撃によって、他戦域への圧力を少しでも減らせれば・・・と言う想いもあったでしょう。

しかし越智は、それでも万が一にも成功の望みのないアイタペ攻撃をした事を、批難しています。
アイタペ攻撃は、他の戦記を呼んでも、作戦実施を批難する論調を見かけません。
日本人は悲壮感、壮烈感に弱いとも指摘しています。
自分は仕事をしていて、負けるのが分かっているのに、戦いをやめる勇気を持たず、あたら人物金を浪費する上司を何人も見ました。
仕事で人は死にませんが、戦争で人は死にます。

7月1日、安達司令官が攻撃命令を下しました。
この時の訓示の要旨は、「18軍の中外に宣揚し、西部ニューギニアで奮戦している友軍(第2方面軍の36師団)の意気に応えよう」というものでした。

1.20師団主力および41師団237連隊で、7/10に坂東川を渡河して敵前進陣地の中央を突破する
2.引き続きアイタペの敵本陣に迫り所要の準備を整えた後、軍の全力を振るって之を攻略する
3.その間、補給は両師団携行するのほか、全兵站部隊の突入輸送によって維持する
4.攻略後の補給は、アイタペの舟艇秘匿位置を利用して、ウエワクより大発輸送するのほか、敵糧による
5.全作戦を通じ、主決戦場は海岸付近の平地方面に求める
6.ただし一部をもって山地方面より、敵側背を脅威し、主力の攻撃を容易ならしめる

アイタペ攻撃計画

越智は、大発(舟艇)を使っての輸送は、当時制海権のない日本軍には不可能だったろうと書いているし、事実その通りだったろうと思います。
それ以外にも、素人の自分が思うに、兵力欠乏した中で、兵力を分割して山地からの迂回攻撃に意味があったのかどうか。

実はマッカーサー軍は、この攻撃作戦を予想していて、ニュージーランドで休養していた米43師団、米124連隊、米戦車112連隊、砲兵連隊を正面に配置し、陣地構築していました。
つまり休養十分、武器、弾薬、食糧も十分な1.3個師団を攻撃する訳です。
マッカーサー軍は前進陣地として、ドリニュモール川(坂東川)に歩兵3個大隊、砲兵1個大隊を配置しました。

この部隊は、いつでもどこでも戦闘艦艇からの海上砲撃、航空支援が出来、反撃部隊として戦車連隊もいます。
もし日本軍が定数だったとしても、米軍歩兵師団とは大砲の門数で1:8の差があり、さらに砲兵連隊を増強されているので、その差10倍以上。
いえ、弾薬備蓄から考えると、さらに数倍の火力差があったでしょう。
日本軍の火砲は大部分が旧式で、日露戦争時より少しマシな程度でしたので、火力差はさらに大きかったでしょう。
18軍は戦車を持たず、しかも日本軍は対戦車戦が著しく遅れていて、歩兵による火炎瓶、爆薬以外の有効な対策はありませんでした。

つまり必要量の1/3しか食べられず、長躯100km近く行軍して疲弊した対戦車手段を持たない日本軍が、休養十分、火力充実、制海権、制空権を持ち、堅固な陣地に拠り、豊富な戦車、火砲を持つマッカーサー軍に攻撃したのです。

中部太平洋、豪北地区の戦局

5月27日、米軍のビアク島上陸、8月20日には陥落。
6月15日、米軍のサイパン島上陸、7月6日には日本軍守備隊は、事実上玉砕しました。
6月19日-20日、日本海軍はマリアナ沖海戦で、参加したなけなしの空母9隻の内、沈没3隻、損傷4隻と大惨敗しました。
6月下旬、サルミの戦闘が終結。
7月2日、米軍のヌンホル島上陸、8月31日には陥落。
7月18日、サイパン失墜により、周囲の圧力に屈し、東条内閣が辞職しました。
7月21日、米軍のグアム島上陸、8月11日には陥落。

もはやアイタペを取るか取らないかが、戦局に影響する事はありませんでした。


アイタペ攻略戦

坂東川の戦闘

7月10日、78連隊、80連隊、237連隊は坂東川を渡河しますが、敵軍の阻止放火で多数の死傷者が出ました。
それでも屍を乗り越え、突入したため、敵の海岸部隊は後退。
右翼の237連隊は海岸線に向かい旋回、78連隊、80連隊は左旋回して敵陣奪取の後、アイタペに向かおうとしましたが、敵陣が堅固で膠着。

後退したかに見えた敵は、ジャングル内に開設した通路より迂回して、味方を攻撃して来ました。
越智はこれは、敵側の作戦計画通りの行動だったろうと見抜いています。
安達司令官は、前進陣地突破後、投入するつもりだった41師団残余を、予定を繰り上げ坂東川に投入せざるを得なくなり、それも間に合わず237連隊は敵中に孤立しました。

この情勢に、中井20師団長は、予備の79連隊で敵陣地右翼のアフア付近の高地帯を占領、敵陣地最右翼を迂回して坂東川を渡り、アフア地区で反撃して来た敵と交戦しました。
当初の計画では、海岸を主攻撃する予定でしたが、敵の主攻も海岸沿いの右翼で、優勢な敵に圧倒されていました。
237連隊が包囲された敵の反撃に対応するため、皮肉にも敵の抵抗が少ない内陸高地から海岸線に向けて攻撃せざるを得なくなりました。
もはやアイタペ攻略どころではなく、坂東川の前進陣地の突破に、全攻撃部隊を投入せざるを得なくなりました。

戦線の各所で優勢な敵に攻撃を阻止され、損害続出、各歩兵連隊は定数3千8百名のところ、百人前後まで激減しました。
もはや攻撃を続ける事は、目的を果たさず、損害を増すだけ。
8月3日、安達司令官は攻撃を中止し、ウエワクに後退して持久するよう命令しました。

恐らく想像ですが、マッカーサー軍が苦戦していたら、もっと多くの兵力が投入されたと思いますが、そうではありません。
連合軍の損害は軽微だったんじゃないかと思います。
日本陸軍は、やたら攻撃したがりましたが、編成上火力は劣り、機関銃も少なかったので、損害の割りに成果は少なかったように思います。
むしろブナ/ギルワ戦やペリリュー島、硫黄島、沖縄で見せたように、固く守った場合の方が、連合軍に恐るべき損害を与えています。
それでも上級司令部は固く守るのを卑怯と考え、あまつさえ防御に徹した指揮官を罷免さえしたのです。

攻撃するより、後退する方が難しいものです。
20師団が陽動攻撃して、その間に41師団は反転攻勢して、坂東川を渡り後退しました。
その間20師団は、坂東川の線を防衛しました。

2週間後、後方のヤムカル/マルジップ地区に後退、終結した時には、総員2万2千人。
苛烈な戦闘で、1万3千もの大損害を受けていました。
8月下旬に5日定量の食糧(18軍にとっては1/3定量なので15日分の食糧)を受領し、ウエワク、ブーツ地区に後退しました。
長蛇の行軍となり、先頭部隊がウエワク、ブーツ地区に到着したのが11月、防御体制が整ったのが12月中旬頃。
重傷病兵を伴っての、徒歩による行軍で、半数が戦闘によらず、途中で行き倒れたとも言われています。

なお、この本には載っていませんが、日本兵が友軍、現地人を襲って人肉を食べた事件があったと言われていますが、この頃の事です。
それだけ限界を超えた状況だったのだと思います。


玉砕寸前の終戦

ニューギニアとソロモンに取り残された部隊

米軍はもはや、疲弊した18軍に興味はなく、窮鼠猫を噛まれては大変と放置しましたが、オーストラリア軍は別でした。
元々ニューギニアを統治していましたので、原住民への威信上からも、日本軍を放置しておけなかったのです。

ラバウルは日本軍の大兵力により、要塞化していましたので、手を出しませんでしたが、疲弊したブーゲンビル島とニューギニアの18軍に11月頃から攻撃を始めました。

自分は終戦間際、オーストラリア軍と日本軍との間で戦闘があったのは知っていましたが、この本を読むまでは小競り合い程度だろうと根拠なく思い込んでいました。
米軍と交代したオーストラリア6師団が、東方進撃と称して、18軍に攻撃を仕掛けました。
豪6師団は、制海権、制空権を得、また火砲も十分にあり、戦車の支援も受け、ハンティング感覚で日本軍を攻撃しました。

ニューギニアに進駐し、軍紀厳正だった日本軍に原住民は好意を持ち、ニューギニア戦全般で道案内に、補給品の担送にと協力してくれました。
終戦間際の絶望的戦闘で、日本軍には補給をする余力がありませんでしたが、原住民が補給品の担送を引き受けてくれました。
恐らく、日本軍陣内で、銃火に倒れた原住民も多くいた事でしょう。

青津支隊は1945年2月までソナム地区を防衛していましたが、その後戦闘はブーツ、ダグア地区に移りました。
ブーツ、ダグア地区は中井20師団が防衛して、豪軍はここを抜けませんでした。
そのため上陸用舟艇と水陸両用戦車を使い、ウエワク東方に上陸して来ました。
豪軍1個旅団は、山側からマブリック地区に攻撃を加えましたが、20歩兵団長三宅少将が死守していました。
安達司令官はマブリック地区を重視し、海岸地区の放棄、ブーツ地区の20師団を投入しました。
豪軍は、手薄になったウエワク地区を占領し、山側に向かって51師団に攻撃を加えました。
豪軍の攻撃で、日本軍は玉砕する部隊が続出しました。

豪軍が大損害を受けていたなら、こんなに攻撃はしなかったでしょう。
恐らく日本軍の何十分の一、何百分の一の死傷ではなかったかと推測します。
太平洋戦争の豪軍の戦死者数は、太平洋の全戦域合計で1万7千人。
これでも18軍の全戦死者の1/10くらいです。
ニューギニア戦線だけなら、この半分以下の損失じゃないでしょうか?

この本には載っていませんが、41師団歩兵239連隊の第2大隊残余、竹永正治中佐以下42名が、日本軍としては珍しい集団投降しました。
一説によると、239連隊が第2大隊に連絡もなく、移動してしまったため、敵中に孤立してやむなく降服したとも言われています。
竹永正治中佐は復員後、恥じたのか戦友会にも入らず、土木作業員を務めた後病死しました。
この後終戦まで、日本軍の集団投降が41師団で2件発生しました。

9月中には食糧がなくなる事になり、そのため8月に最後の突撃作戦が予定されていました。
8月8日に、防衛線中央キャリブに敵が侵入し、陣地を築き始めました。
18軍は攻撃しつつ、キャリブ陣地の拡大を防止しましたが、部隊の玉砕が相次ぎ、このままでは8月に全滅する危険さえありました。


安達中将の自決

8月15日に、日本は無条件降伏しました。
さすがに豪軍の攻勢は弱まりましたが、8月15日以降も小規模な戦闘は続きました。
戦闘も8月末までには完全に止み、18軍は再び第8方面軍に復帰しました。

再び指揮下に入った第8軍司令官、今村均大将の命令で、オーストラリア軍に降伏しました。
一時は最大14万もの陸海軍将兵がいましたが、ニューギニアでの、のべ戦死傷者約14万5千名、最後に残ったのは1万3千人。
民間人も含め、日本にたどり着いたのは2万人弱と言われています。

1947年9月10日、降伏後の残務処理が一段落して、戦争裁判も終了したのを見届け、上官の今村大将、復員局長の上月中将宛に遺書を残し、安達中将はラバウルで自決しました。
自分個人としては、安達中将の自決に意味があるとは思えません。

越智は遺書の文を引用しています。
「小官は皇国興廃の関頭に立ちて、皇国全般作戦寄与のためには、何物もを犠牲として推しまざるべきを常の道と信じ、打ち続く作戦に、疲弊の極に達せる将兵に対し、さらに人として耐ええる限度を遙かに超越せる艱難敢闘要求致し候。之に対し、黙々と之を遂行し、力尽きて花吹雪の如く散り行く若き将兵を眺める時、君国のためとは申しながら、その断腸の思いは、神のみ知ると存じ候。当時、小生の心中固く誓いしところは、必ずこれら若き将兵と運命を共にし、南海の土となるべく、例え凱陣の場合といえども帰らじ、とのことに之あり候・・・」

越智はこの死を、肯定的に捉えています。
一方的に部下に死を命じ、前線逃亡してまで命を全うした指揮官も少なくありませんでした。
度々前線の死地に向かい、最後まで部下と共にあった安達中将には、死んで欲しくなかった。

ニューギニア戦を見て行くと、いかなる名将でも、どうしようもなかったと思います。
3個師団ではニューギニアを守るのに兵力が少な過ぎ、そしてたった3個師団の補給もままなりませんでした。
海軍に攻勢終末点の発想があったのか、なかったのか知りませんが、ニューギニアは攻勢終末点を越え、補給限界を超えた地で、日本軍は通産3年も戦い続けたのが、この悲惨な結果でした。

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