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2015年3月14日 (土)

ニューギニア決戦記(1) / 越智春海

ビルマ戦記に続く、戦記物の書評。作者も同じ、越智春海です。

太平洋戦争の、日本軍の下手な戦ぶりは、ビルマ戦記(1)を参照願います。
また、戦記にウソが多いと言う点も、お読み頂ければと思います。

「ジャワは天国ビルマは地獄、死んでも帰れぬニューギニア」と言われたそうですが、その最悪最低の戦場、ニューギニア戦について書かれています。
ニューギニア戦に参加した日本軍、陸海軍のべ15万人以上で、日本に復員出来たのが、1万3千人と9割以上が、ニューギニアで亡くなっています。
しかも約14万人弱もの戦死者の大部分が、戦って死んだのではなく、餓死また食糧不足による衰弱死、病死です。
純然たる、戦闘による戦死は、当てずっぽうに1-2割くらいじゃないでしょうか?
ちなみに、アメリカ、オーストラリアを中心とする連合軍の損害が、戦死約12,000。
数字で見ても、散々な負け戦です。
戦闘は、人智を尽くしても、勝ち負けありますが、餓死、病死、衰弱死がここまで出たのは、上位組織の無策に他なりません。

太平洋戦争の、転回点の戦いではありますが、当初は無人の野を行くかの如き進撃(実は苦戦していますが)が少しあり、大部分はジャングルを彷徨い、数少ない戦闘もアメリカ軍のいいように押しまくられていたと言うのが実情です。
太平洋戦争の転回点も何も、そもそも戦になっていません。

ニューギニア戦に参加した人の手記は多くなく、またニューギニア戦の推移を通して書いた本も多くなく、越智春海の本書は貴重な一冊です。
ニューギニア戦に参加した人の手記が多くないのは、上記のように戦闘で死んだ人より、戦闘しないで、未開のジャングルを移動して、餓死、病死、衰弱死が続出したからではないでしょうか?
以前紹介したビルマ戦は、一方的に日本軍が追い立てられ敗北しましたが、前線の兵士は、いたるところで劣勢なのに勇戦し、連合軍側を驚嘆させています。
しかしニューギニア戦では、日本軍に勇戦する機会さえ、なかなか与えてもらえませんでした。

ニューギニア戦を理解する上で、開戦前に旧日本陸軍、海軍間で締結した「陸海軍中央協定」で、太平洋戦域は海軍が担当すると決まりました。
つまり太平洋上のニューギニアは本来、陸軍の受け持ちではなく、海軍の受け持ちだったのです。

旧日本陸軍は、そもそも満州とか、中国の広大な地で戦闘する事を想定していました。
世界に先駆け、大発、小発の上陸用舟艇を採用し、上陸作戦の研究もしていないではありませんが、太平洋の島々での島嶼戦(とうしょせん)を戦うつもりはありませんでした。
太平洋戦争が始まってもなお、陸軍ではアメリカと戦うための諜報活動でさえ、おざなりだったほどです。
大本営陸軍部第2部(情報)参謀、堀栄三の著作、「大本営参謀の情報戦記 情報なき国家の悲劇」に、堀栄三中佐が大本営陸軍部第2部の第6課(米英課)に入った時、参謀の米英担当がたった6名しかいなかったと書かれています。
6名が米国班、英国班、南方班(地図/地誌兼務)、戦況班に分かれていたそうなので、各々1-2名程度の参謀しか担当していませんでした。
旧日本陸軍の仮想敵国は中国、ソ連であって、上記の例の通りアメリカ、イギリスは軽視されていました。

海軍には、上陸戦闘を専門とする、海軍特別陸戦隊が、太平洋戦争開戦時に、2万名くらいいました。
しかしこの程度で、先の陸海軍中央協定で、太平洋を担当出来るはずもありません。
手に負えないところは、陸軍の協力を仰ぐ事になります。

例えば仕事で、他部署の協力を仰ぐ際、他部署の事情も考え、控え目に要求した事のある人は多いでしょう。
海軍も同様に、陸軍に協力を仰ぎ、陸軍では太平洋に大軍を送り込むつもりはないので、自分の都合良く敵情を下算し、兵力の逐次投入、各個撃破の悪循環となりました。

そもそも、どうしてニューギニアが戦場になったのでしょうか?
日本の太平洋戦争開戦時の計画には、ニューギニアなんぞ、含まれていなかったのです。
大本営で策定した戦略では、援蒋ルートの切断のため、英軍の太平洋進出を防ぐため、またアメリカ勢力の一掃を狙い、マレー半島からシンガポール、インドネシア、ビルマ、フィリピン、グアム、マリアナ諸島までの占領しか、考えていなかったのです。
太平洋戦争の良し悪しは置くとして、この戦略は妥当です。

太平洋戦争・第一段階作戦

本書で、越智春海は、陸軍には攻勢終末点と言う考え方があったが、海軍にはなかったと書いています。
攻勢終末点とは、補給する距離が伸びれば伸びるほど、補給負担が高まり、攻勢を支え切れなくなる限界点を言います。
日本が、朝鮮で戦争をするのと、遠く離れたニューギニアで戦争するのでは、補給負担が大きく異なる事は、自明の理でしょう。
海軍に、攻勢終末点と言う思想がなかったと言うのは、本当でしょうか?
しかし、あり得る話だと思います。

旧日本海軍は元々、アメリカとの戦争の場合、陸軍がフィリピンを攻略し、アメリカ軍が救援に出て来た所を、日露戦争の日本海海戦ばりに迎撃する作戦でした。
海軍も、この作戦を実現するために、軍備を整えていたのです。
ですから本来、真珠湾攻撃なんて発想は、ほとんどの海軍軍人にはなく、ましてや海戦の主役が航空母艦になる事すら、理解されていませんでした。
海軍の主力艦は戦艦・・・多くの海軍軍人は、終戦まで固く信じていました。

本来、海軍にも攻撃終末点はあります。
制海権下の港湾から港湾まで、輸送船の航続距離とネットワーク、物資の集積速度から、攻撃終末点を決定する事が出来ます。
しかしそもそも、海軍には、日本海海戦のような、乾坤一擲の海上決戦で雌雄を決すると言う発想しかありませんでした。
海軍の戦略、戦備は、敵の軍艦を沈める事しか考えられていませんでした。
同じ海に浮かぶものであるにも関わらず、船舶輸送、シーレーン確保・防衛と言う発想がなかったのです。

陸軍も海軍も、アメリカ軍の反攻は、開戦の1年半後、1943年春と、何の根拠もなく、規定事実の前提に立っていました。
これは、当時の連合艦隊司令長官、山本五十六の発言が元とも言われています。
上図の第1段階作戦が、思いの外スムーズに進捗したため、敵が反攻に出るであろう1943年春頃までに、出来るだけ占領地域を広げておこうと言う安易な考えから、ギルバート諸島やニューブリテン島、ニューギニア、ソロモン群島に手を広げます。
海軍が、オーストラリア攻撃を陸軍に持ちかけると、太平洋に大軍を派遣するつもりのない陸軍(最低11個師団20万名以上必要と算出)から、攻撃終末点を根拠に拒絶されます。
すると海軍は一転、オーストラリア包囲網を敷くために、フィジー・サモア攻略作戦を打ち出し、3個連隊程度(1万5千名くらい)の応援を陸軍に要請して、その程度の兵力ならばと、陸軍も了承します。
この事実をもって、越智春海は、陸軍の攻勢終末点の思想は、どこへ行ってしまったと嘆きます。

一般に、太平洋戦争の頃の旧日本陸軍は、時代遅れと思う人は多いですが、一方の海軍に関しては、けっこういい線行ってたと思っている人は多いです。
しかし越智春海は、ガダルカナル戦なんかの中部太平洋戦、そしてニューギニア戦を、海軍が無定見に防衛線を広げた事を批判しています。
上記の通り、海軍上層部では、海戦する事にしか興味がなく、船舶輸送、シーレーン確保・防衛と言う発想がなく、攻勢終末点を遙かに越えて占領地を広げたため、日本が敗北するきっかけをかなり早めたと言えます。
海軍のいくつかの兵器は、世界水準でしたが、兵器が良くても、戦略、戦術が間違っていれば、勝てる戦も勝てやしません。
コンピューターに例えると、いくら高速高性能なハードウェアがあっても、便利なソフトウェアがなければ、意味がないのと一緒です。
自分が思うに、陸軍と海軍は、似たかよったかと思います。

話は遡り1934年、ベイブ・ルース、ルー・ゲーリッグらを擁する大リーグ選手団が来日し、まだプロ野球のなかった日本で野球をします。
これがきっかけで、日本にプロ野球チームが出来るのですが、それは別の話。
実は大リーグ選手団の捕手、ルー・バーグは、後に諜報活動していた事が知られ、この時も大リーグ選手団に付随して、諜報活動していたのではないかと言われています。

アメリカは元々、交戦する可能性がある国の作戦計画を立てていまして、対日本戦の計画は、オレンジ・プランと言いました。
まだ日本と友好関係にあった、第一次大戦終結後の1919年に立案され、1924年に陸海軍合同会議で採用されたそうです。
第1案、第2案は兵器や戦術の進歩で時代遅れとなりましたが、第3案は日本軍が太平洋の多くの島を占領した事を想定し、島伝いに飛び石に占領しながら反攻して、グアムとフィリピンを奪回する長期戦闘計画でした。
結果として、太平洋戦争はこの計画に沿った形で進捗し、日本が敗れて終戦となりました。

そしてまだ日米対立する前の1934年に、アメリカは将来の布石として日本をスパイしていたのです。

旧日本陸軍の編成

今後、旧日本陸軍の部隊編成の用語、大隊、連隊、歩兵団、支隊、師団、軍等の用語が出て来ますので、陸軍歩兵師団の編成について、述べます。
一番小さい部隊単位は、分隊で、兵最大12名。
小隊は4個分隊、中隊は3個小隊、大隊は4個中隊、連隊は2~3個大隊となります。
陸軍では、補給部隊を持ち、作戦地域に投入する最低規模が、連隊となります。
もっとも小さな戦闘では、大隊とか中隊が投入された事もありますが。

歩兵団は、1個歩兵連隊を基幹とした、諸兵科連合した兵力を言います。
支隊は、諸兵科連合した兵力を分割した、本隊に対するもう一方の部隊を言います。
編成は、その都度の作戦によって異なりました。
3個歩兵連隊で、1個歩兵師団。
歩兵師団には他兵科の砲兵連隊、捜索隊、工兵大隊、輸送連隊、通信小隊が配属されます。
戦時の定数は約2万5千名でしたが、兵員が充足した部隊は、ほとんどありませんでした。
1個歩兵師団プラスアルファ、または2個歩兵師団以上で、軍となります。

ニューギニア戦と言うと、中部太平洋戦と併せて考えねばなりませんし、越智春海の専門外なのか、航空戦についても、本書では軽くしか書いていません。
次回から、本文に関わる書評を、中部太平洋戦、航空戦含め掲載します。
書評も書いていますが、分量は少しで、むしろ過酷なニューギニア戦の推移をを簡単になぞって行きたいと思います。
2週間に1回おき、全7回の掲載を予定しています。

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