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2015年3月22日 (日)

ニューギニア決戦記(4) / 越智春海


兵科記号について

文章の理解の一助にと、図を多用しています。
ニューギニア戦は、登場部隊数も多く、兵科(軍内で細分化された部隊の専門職)も多岐に渡ります。
図に部隊名を入れて行くのは煩雑で、またごちゃごちゃして見にくくなってしまいます。

軍隊では昔から、兵棋演習(図上演習)の際、兵科記号を用いていました。
現代では、軍の作戦を図示する場合、NATO軍の標準化された兵科記号を用いるのが一般的なので、以後これに倣い図示して行きます。

部隊規模に関しましては、前回の記述を参考に願います。

前回の記述は日本陸軍に関するもので、アメリカ軍、オーストラリア軍には以下の例外があります。

1.「師団」の上位組織は「軍団」、「軍団」の上位組織は「軍」
2.オーストラリア軍はイギリス式編成ですので、大隊の上位組織は「旅団」、「旅団」の上位組織が「師団」
3.アメリカ軍海兵部隊は部隊番号に「M」をつけています
4.可能な限り部隊番号をつけていますが、以下の場合部隊番号をつけていません
・独立部隊
・集成部隊(つまり寄せ集め部隊)
・部隊番号が不明
・独立部隊を除く、日本軍、アメリカ軍の大隊以下、オーストラリア軍は中隊以下
5.兵科記号で、機械化されているかされていないかの区別がつけられますが、煩雑になるので割愛しました
・日本軍は機械化されていません
・アメリカ軍、オーストラリア軍は機械化されています
6.騎兵部隊は、この時代には馬には乗っておらず、歩兵として戦いました
7.参考までにアメリカ軍の歩兵部隊の規模は以下の通りとなります
・師団 約15,000人
・連隊 約3千人
・大隊 836人
8.参考までにオーストラリア軍の歩兵部隊の規模は以下の通りとなります
・師団 13,000-18,000人
・旅団 約3,500人
・大隊 800-900人



第四章 ラエ・サラモアの危機

岡部支隊のワウ攻撃

ブナ守備隊/南海支隊のブナ地区退却

ブナ地区の撤退に先立つ、1943年1月7日、ブナ地区の後方、ラエに、51師団の岡部支隊が上陸しました。
輸送船で運ばれて来る途中、連合軍の空襲に遭い、定数の2/3しかラエに到着出来ませんでした。
2個中隊は、クムシ河口まで進出して守りに付き、悲惨な撤退をして来た南海支隊、21旅団を収容しました。

岡部支隊のワウ攻撃

航空偵察で、サラモア南方のワウに新飛行場を建設している事が分かり、岡部支隊主力、残余2個大隊(推定2千名)が1943年1月14日、ワウ攻略に向かいました。
敵の空襲を避けるため、プロロ川渓谷を直進する最短ルートを選ばず、ジャングルを切り開き、迂回するルートを選択したため、ワウに近接するまで10日以上かかりました。
当時、連合軍の原住民スパイが、日本軍の施設に紛れていたらしく、岡部支隊主力がワウに接近する前に、連合軍に気付かれました。
岡部支隊がワウに攻撃する直前まで、天候不順で、ワウには少数の部隊しかいませんでしたが、岡部支隊が攻撃開始した30日までには天候も回復し、増援も到着したため大反撃を食いました。
すぐに守勢に回り、後退して設定した防衛線も崩壊寸前となり、2月14日に18軍の後退命令が出て、崩れるように後退しました。

後世、プロロ川渓谷を直進すれば、ワウは攻略出来たと言われていますが、それは焼け石に水の戦果に過ぎなかったでしょう。
ワウまでの補給路を設定する事は、思いもよらない事で、またワウはブナ地区の制空権下で、維持する事は不可能だったでしょう。

ニューギニア北岸の最前線は、マンバレーでしたが、ワウ攻略につまずいた事から、後退してサラモアを最前線としました。
ブナ地区から後退して来た、南海支隊、21旅団の残余の傷病兵も、ラエ、サラモア地区に後退、ラバウルからの船、飛行機に乗って段階的に後退して行きました。

第十八軍の態勢

一木支隊、川口支隊、2師団、38師団と、戦力の逐次投入、壊滅を繰り返していたガダルカナル島は、1942年12月31日の御前会議で撤退と決定。
それにともない大本営では、ソロモン諸島が主作戦で、ニューギニアは支作戦だったのが、ソロモン諸島支作戦で、ニューギニアを主作戦と変更しました。
ガダルカナルに投入予定で、当初17軍編入を発令していた20師団を、18軍に編入発令しました。
さらに当初からの予定通り、41師団も18軍に編入し、ラバウルに送られ、駐屯していた51師団も18軍に編入されました。

著者の越智春海は、5師団の将校として、東ニューギニア戦のこの頃まで、ウエワク、マダン付近にいました。
5師団は運の良い事に、20師団、41師団と入れ替わりに、平穏なモルッカ諸島に転進して、終戦を迎えました。

越智春海は、この3個師団の18軍編入で、大本営はニューギニアの戦勢挽回を期待していたと書いています。
ニューギニアは、日本の本州の3倍の面積で、守るべき海岸の長さは、ウエワクからサラモアまででも推定千km以上。
そこに3個師団、定数で約7万5千の部隊。
定数の1個師団の守備正面は、標準6kmと言われています。
あくまでも単純計算では、千kmで166個師団必要となります。
大本営はその部隊に、防御はおろか、攻撃してアメリカ軍を撃退する事を期待してたのです。

日本より広大なニューギニアをたった3個師団で防衛しようとするのが、そもそも無理。
制空権、制海権を奪われているのに、なおニューギニアに固執したのは、現地で戦う将兵の悲劇でした。

ニューギニアへの増援

とりあえず41師団、20師団をウエワクへ、ラバウルの51師団は、最前線のラエ、サラモアに送る事になりました。
ウエワクからラエ、サラモアまで、海岸伝いに1000km以上。
当時のニューギニアは、この間の道路インフラなどなく、未開のジャングルが横たわるのみでした。
陸上の補給など、望むべくもなく、海上補給もこの当時、ダンビール海峡以西は、連合軍の制空権下で、大本営の設定したラエ、サラモア地区にたどり着くのさえ奇跡のような状況でした。

41師団はウエワクに駐屯、20師団は当初はウエワク、後にマダンに駐屯しましたが、ウエワクからマダンまでの400kmの間にも、ジャングルしかなく、舟艇部隊で海岸伝いに運ばなければなりませんでした。
この態勢でこの2個師団が、最前線のラエ、サラモア地区に影響を与える事はありません。

この方面の航空作戦については、本書では軽くしか書いていませんので補足します。
当初、海軍からの要請で、ソロモン諸島、そしてニューギニアに引っ張り出された陸軍は、陸軍の航空部隊はこの地になく、海軍の航空部隊が頼みの綱でした。
その海軍の航空部隊は、相次ぐ激戦で壊滅する部隊が続出。
開戦時に多数いたベテラン搭乗員の多数を失い、再建してラバウルに進出して来た時には練度が低く、戦力が減じる結果となりました。

1942年4月上旬に、ソロモン方面での陸海軍協力の御下問を機に、この方面に陸軍航空部隊を派遣せざるを得なくなりました。
当初1942年7月に、偵察機隊の第81戦隊の1個中隊を送り込み、9月にも偵察機隊の独立飛行76中隊を派遣しました。

さすがにこれではマスかろうと、1942年11月、6飛行師団を編成しました。
1942年11月には歴戦の精鋭戦闘機隊、一式戦闘機(隼)装備の11戦隊、1月には第1戦隊をラバウルに派遣しました。
2式複座戦闘機(屠龍)装備の45戦隊、軽爆撃機装備の208戦隊を1942年11月にブーツに派遣しました。
1943年3月も、97式重爆撃機装備の15戦隊をラバウルに派遣しました。
正式採用したばかりの3式戦闘機(飛燕)を装備した68戦隊、78戦隊が満州で開隊して、ニューギニアに派遣される事になりました。
6月に68戦隊がウエワク着、6月末に78戦隊がウエワク着しました。

魔のダンビール海峡

81号作戦

最前線のラエ、サラモア地区に、51師団の岡部支隊のみ送り込みましたが、51師団主力はラバウルのまま。
ラバウルから、輸送船でダンビール海峡を越え、ラエ、サラモア地区に51師団主力を送り込むべく、計画されたのが「81号作戦」です。
「81号作戦」の半分の規模で、岡部支隊を送り込んだ時でさえ、連合軍爆撃機に襲撃されて、1/3を失いました。
時が経ち、状況はさらに悪化していて、海軍は「81号作戦」に猛烈に反対しましたが、最終的には起案した陸軍の「81号作戦」に折れました。
この時、「81号作戦」の船団護衛に駆出された海軍、陸軍戦闘機、ニューギニア、ソロモン諸島方面の全機数、合計約200機。
日本軍からすれば、前例のない大規模護衛戦闘機ですが、いっぺんに200機が上空で護衛する訳ではありません。
200機とは大した事なく、時間割に区切ると、最大24機程度が、船団の上空援護するのが精一杯です。
船団の上空援護した、海軍の戦闘機乗りの手記に、無謀な作戦と書かれていた記憶があります。

当時の陸軍は、ニューギニア方面の敵航空戦力を200機と推定していますが、その根拠は怪しいものです。
今日では、倍の400機くらい航空機があった事が判明しており、さらにソロモン諸島方面に500機弱、それも日に日に増加の一途でした。
我彼戦力拮抗と根拠なく断定し、それを前提に作戦を起案したように思います。
冷静に考えれば、反対する海軍の方が正論で、「81号作戦」は自ら死地に赴くようなものです。
陸軍中央(特に大本営作戦課のエリート)が信じられない事に、海上輸送や、航空作戦に音痴だった事が伺えます。

51師団は決死の覚悟で、8隻の輸送船に、たとえ輸送船が1隻沈んでも、大きな戦力低下を招かないよう、7千名弱を各輸送船均等に分乗して、出発しました。
輸送船団には、18軍司令官、安達中将も乗り込みました。
8隻の駆逐艦が護衛し、この時の駆逐艦隊司令は、後にキスカ撤退作戦を見事成功させた、名将木村昌福少将。
1943年3月1日、船団はラバウルを出港しましたが、その日の昼には、連合軍偵察機に発見されました。
3月2日には、連合軍のB17約10機に攻撃され、輸送船1隻沈没して、波に浮かぶ兵士を駆逐艦が救援し、そのまま高速でラエに急行して上陸させました。
船足の遅い輸送船団は、そのままラエに向かいましたが、3月3日に連合軍爆撃機約80機、戦闘機約40機に襲われ、日本軍の護衛戦闘機は、連合軍戦闘機と戦うのが精一杯の状態。
残り7隻の輸送船は全て沈没、さらに護衛駆逐艦4隻沈没。

残りの駆逐艦は、波に浮かぶ将兵を救助して、ラバウルに帰還しました。
ラエに送り込めた将兵約800名、ラバウルに帰還できた兵、約2400名。
ニューギニア決戦に期待された51師団は、敵と戦わずして、兵数半分以下、あえなく挫折しました。

後のキスカ撤退作戦成功で、日本軍最高の名将とアメリカ軍に激賞された木村少将でも、雲霞の如き一方的航空攻撃には、なす術もなかったでしょう。
この時連合軍は、スキップ・ボミング(反跳爆撃)と言う戦術で、輸送船団を攻撃しました。
ここでは、詳細は語りません。興味があれば、調べてみて下さい。

難航する道路工事

この結果に、大本営があわてて作成した「南東方面作戦陸軍海軍中央協定」には、依然ラエ、サラモア地区が主戦場と書かれています。
これを受けて作成した、現地の陸海軍協定も、従来の作戦方針のまま。
壊滅と言って良い損害を受けた51師団の残余は、舟艇でフィンシハーヘンまで渡して、その後道なき海岸を徒歩で、ラエに向かいました。

ラエ、サラモア地区へ補給を送る事は、事実上不可能となり、もはや敵制空権が及ばないマダンに陸揚げして、陸軍の船舶部隊が海岸沿いに細々輸送するか、深夜に高速駆逐艦で細々補給するネズミ輸送しか、手はなくなっていました。
18軍では、ニューギニアの41師団、20師団に、ラエ、サラモア地区の支援をするべく、20師団がマダンから道路をラエ、サラモア地区への道路工事を始めました。
ブルドーザーを使い、短時間で飛行場や道路を作るアメリカ軍と違い、日本軍にはブルドーザーと言う発想はなく(当時ブルドーザーがなかった)、スコップ、ツルハシで掘り返し、土木運搬一輪を使った人力で工事していましたので、道路工事は遅々として進みませんでした。
道路の完成前に、連合軍の反攻が予想され、ラエ、サラモア地区の兵員増援のため、20師団から抽出した1個大隊を、舟艇で海岸伝いにラエ、サラモア地区に送りました。

また、輸送は最前線への輸送を優先したため、41師団、20師団の輸送は後回しになりました。
1943春時点で41師団、20師団の兵力の半数もニューギニアに届いていない状況でした。
41師団、20師団とも、この輸送遅延のため、結局まともな兵力で戦った事は、一度もありませんでした。
ガダルカナル戦と、これまでのニューギニア戦で、日本の輸送船団は大打撃を受けており、日本国内で必要な物資の補給ですら、ままならなかったのです。

中野師団長の出撃

1943年4月に、中部ニューギニア内陸部、ムグロ、ベナベナ、カイナンツ近辺に、オーストラリア軍が飛行場を建設している事が判明しました。
これまでニューギニアの補給基地として、ウエワク、マダンに物資を陸揚げしていましたが、飛行場が完成すると、ウエワク、マダンも連合軍の制空権下となります。
18軍では、連合軍の新飛行場への攻撃を意見具申しましたが、大本営は意見を認めたものの、従来の任務、兵力配置はそのままで、飛行場への攻撃を追加しただけでした。

この地で、一大航空決戦をするべく、6月に第7飛行師団・・・100式司偵装備の10戦隊、一式戦闘機(隼)装備の24戦隊、59戦隊、2式複座戦闘機(屠龍)装備の13戦隊、99式双発軽爆撃機装備の208戦隊がニューギニアに送り込まれました。
陸軍の航空部隊増強を受けて7月28日、第4航空軍が新設されました。

1943年6月には、ラエ、サラモア地区の連合軍の動きが活発になり、いよいよ連合軍の攻撃間近と、感じられました。
51師団の中野師団長は6月20日、正面のムボ、ウェバリにいる敵に、敵の攻勢の機制を制して、66連隊を主力に攻撃を仕掛けました。
この攻撃には、新たにウエワクに到着した、白城子教導飛行団の爆撃機も支援しました。
しかし、連合軍の陣地は縦深で、地雷、ピアノ線、鉄条網、鹿砦(ろくさい)を配置して、探知機も無数にあり、探知機に反応すると、たちまち銃弾、砲弾が雨のように降って来ました。
一度は、攻撃頓挫しましたが、翌日損害を省みず攻撃再開して、第2線陣地まで奪取しましたが、力尽き全滅寸前となりました。
中野師団長は、退却を命じ、以後66連隊は、戦力を失いました。

当時の日本陸軍では、陣に堅く守って、敵を迎え撃ち、損害を与えると言う、当然の戦法は評価されず、積極性がないと罷免される可能性が高かったほどでした。
むしろ無茶でも、敵に攻撃を加える指揮官の方が、積極的だと高く評価される傾向にありました。
多くの戦場で、優勢な敵に意味のない攻撃を加えて損耗し、守勢に回った時には戦力不足。
攻撃で損害を受け、防御時に優勢な敵に損害を受けると言う、2重に損害を受ける羽目になりました。

それなのに、上位司令部への戦闘詳報では根拠なく、常に日本軍が敵に自軍の損害より大損害を与えたが、寡兵(つまり味方の兵が少ない)でままならず、作成遂行出来なかったと報告しています。
これが日本側からの太平洋戦争の戦記で誤って書かれる、アメリカ軍の鉄量に日本軍の肉弾で勇戦するが、物量に敗れるというイメージの植え付けです。
現実にはこんな展開は、めったに起こりませんでした。
戦闘詳報は、自軍がこれだけ損害を受けているのだから、敵軍はそれ以上の損害を受けているだろうと言う、根拠のない希望的な判断であって、現実には日本軍の一方的な下手な戦で、連合軍の損害は日本軍の1/10程度でした。

この辺が、日本軍の兵、下士官は優秀だが、指揮官はワンパターンで、質が低いとアメリカ軍に評価されるゆえんです。
ちなみに、陣によって固く守った時には、硫黄島や沖縄で、アメリカ軍に物凄い損害を与えています。

連合軍の第二期攻勢

連合軍の第二期攻勢

6月30日、アメリカ軍が、ナッソー湾上陸、またソロモン諸島でレンドバ島上陸を行いました。
また、ソロモン諸島とニューギニアの中間にある、キリウィナ島、ウッドラーク島にも上陸しましたが、日本側は気付きませんでした。

本書には載っていませんが、海軍戦闘機隊が先行して制空をして、陸軍第6飛行師団では、ラバウル西飛行場より14戦隊重爆18機、1戦隊、68戦隊の戦闘機23機で出発し、レンドバ島爆撃を実施しました。
この程度の機数では、大した損害は与えられません。
陸軍第6飛行師団は続けて、ナッソー湾攻撃もしましたが、ことらも大した戦果は挙げられませんでした。

戦力を損耗した51師団は、ナッソー湾、ムボ、ボブダビの敵、全てに対応する事は出来ず、わずかに室谷少将の指揮する歩兵団が、ボブダビに反撃を加えられるのみでした。
それも、主力部隊の1つは、舟艇で到着したばかりの20師団の1個大隊である、神野大隊。
白兵戦で、攻撃して来たオーストラリア軍を撃退し、ボブダビの陣に付きました。
現地を視察した18軍の安達中将は、51師団の戦力損耗(定数の1/3)を見て取り、41師団の歩兵団司令部を、舟艇でラエに進出を命じました。

かねてから、ラエ、サラモア地区が最前線となる想定をしていましたが、先にブナ地区から退却してきた栄養失調の傷病兵を後送するのに手一杯で、陣地構築が後回しになっていました。
しかし連合軍が遠からず攻めて来るのは、分かっていた筈で、準備不十分のそしりを免れませんね。

サラモア戦

陣地の最南端、ムボに、51師団の主力、攻撃で損耗した66連隊が着陣していましたが、オーストラリア軍の無制限とも言える猛砲撃、猛爆撃を受け、さらにムボ陣地後方に浸透して来ました。
対する、66連隊は、各砲で1日10発、機関銃は弾の浪費が激しいので、連射禁止のひもじさでした。
これも、弱体化した51師団に、ラエ、サラモア地区の陣地線が長過ぎた訳で、返す返すも不必要な66連隊のムボ、ウェバリ攻撃が、悔やまれます。
7月11日、中野師団長は、やむなくムボ陣地から66連隊を後退させ、カミアタム高地に布陣させました。
これで、当初構想通り、戦線を縮小してボブダビ、カミアタム、ボイシを結ぶ馬蹄型陣地を構成しましたが、これでもなお陣地を守るに兵力不足でした。
しかも陣地構築が放置されていて、慌てて工兵を投入して、陣地構築を始めました。

敵制空権、制海権下で、舟艇による細々とした補給だけが頼りで、着陣した部隊にはとうてい行き渡りませんでした。
そんな悪条件下、兵は勇敢に防戦して、敵の侵入を防ぎました。

この頃から、大本営では、次期国防線を検討して、ラエ、サラモア地区は前衛地区に格下げ、西部ニューギニアを新たな国防線にするよう検討を始めました。
新設した第4航空軍の支援の元、6月に判明したムグロ、ベナベナ、カイナンツの敵飛行場を攻撃し、ウエワク、ハンサ防衛を安泰にする方針を検討し始めました。

飛行場攻撃計画

8月3日、18軍の安達中将は、補給も満足になく、苛烈な戦闘を続けるラエ、サラモア地区の戦況を見て、ムグロ、ベナベナ、カイナンツの攻撃は中断して、フィンシハーフェン地区の確保が第一と報告しました。
8月10日には、20師団の一部、80連隊に1個大隊をつけ、フィンシハーフェン進出を命じます。
これはその時点での作戦方針と大きく異なり、大本営、上位組織の第8方面軍が容認できる事ではありません。
ムグロ、ベナベナ、カイナンツの攻撃のために、18軍に兵力増強して来たからです。

7月下旬には、ムグロ、ベナベナ、カイナンツ飛行場攻撃の任務を想定した、7飛行師団がウエワクに到着しました。
6飛行師団と7飛行師団を合わせると、事実上当時の陸軍航空の約半分の兵力となり、最前線のウエワクに集結させ、後は大本営の命令下、敵を撃滅すると意気盛んだったのです。

8月16日、ウエワクの戦闘機部隊が、カイナンツの飛行場攻撃に向かいましたが、優勢な連合軍戦闘機と戦闘となり、目的を果たせませんでした。
8月17日、連合軍は戦爆連合(戦闘機と爆撃機の混成部隊)でウエワクとブーツに来襲して、飛行機が地上で100機以上の損害を受ける大惨事が起こりました。
ウエワクは、最前線の航空基地で、ムグロ、ベナベナ、カイナンツの敵飛行場からの攻撃圏内にあったにも関わらず、これまで攻撃される事はありませんでした。
増援された、7飛行師団の多くは、航空戦の平穏なジャワ島やチモール方面から来たので、航空偽装、分散配置に無関心だったのでは、と考えられます。
しかし数ヶ月戦闘している6飛行師団も、敵から攻撃されない事を良い事に、航空偽装、分散配置していなかったんだろうと思われます。
8月6日に着任したばかりとは言え、第4航空軍の司令官、寺本熊市中将は、航空戦の専門家なのに、この失態はどうした事でしょうか?

翌日も航空攻撃され、日本の飛行機生産力では、一気に100機も損失すると、補充は難しかったのです。
以後第4航空軍は、最大70機くらいで、日々の戦闘で損耗して衰弱して行きます。
この損害で、作戦発動前に、ムグロ、ベナベナ、カイナンツ飛行場攻撃の構想は、崩れたのです。
しかしもしも、航空機の損害を受けなかったとしても、ラエ、サラモア地区に逐次投入した残余の航空部隊で、ムグロ、ベナベナ、カイナンツ飛行場攻撃が成功したか、はなはだ疑問です。
陸軍航空としては、航空大兵力を集結させたつもりですが、それでも敵航空経力との隔絶した差・・・制空権を得られたかすら疑問です。

サラモア地区からの撤退と連合軍の攻勢

同じ頃、半ば見捨てられた感のある、ラエ、サラモア地区の66連隊の守るカミアタム高地が、連合軍の浸透を受け、危なくなりました。
ここでも、66連隊の兵力不足が仇となったのです。
8月16日、中野師団長は、カミアタム高地の北方、草山と呼ばれる新陣地に、66連隊の後退を命じました。
草山陣地は、ラエ、サラモア地区に舟艇異動して来た、41師団の歩兵団司令部(238連隊基幹)が陣地構築して、着陣していました。
海岸のボイシの陣地も、連合軍に奪取され、中野中将は縮小したロカン、草山、ボブダビの陣地の死守命令を出します。
連日の激戦にも関わらず、日本軍は、ロカン、草山、ボブダビの陣地を死守していました。

9月2日、第8方面軍から、もはや全滅以外の道がないラエ、サラモア地区は、必要があれば、撤退すべしと命令が来ました。
撤退計画、撤退方法もままならない中、9月4日にポポイにオーストラリア第9歩兵師団が上陸しました。
本文には、アメリカ軍と書かれていますが、これは間違えです。
英文資料には、上陸時に日本航空部隊の空襲に遭い、100名の戦死者を出したと書かれています。
どの航空部隊の攻撃なのか、自分には資料がありません。

9月5日には、ナザフ平原に、米503空挺連隊が降下しました。
本文には、オーストラリア軍空挺部隊と書かれていますが、これは間違えです。
ポポイにも、ナザフ平原にも防衛部隊はなく、これで、ラエ、サラモア地区の部隊の退路が絶たれました。

ブナ地区の戦闘に、ラエ、サラモア地区の戦闘、日本軍は正面から当たるに頑強で、損害が多いとアメリカ軍は学習しました。
そのためこれ以降、日本軍部隊を避け、制空権、制海権を背景に、日本軍部隊後方に上陸します。
もうマッカーサー軍には、損害をものともせず攻撃する、世界一の猛将は必要ないのです。
これはある意味、マッカーサーのカエル飛び戦術の先駆けではないでしょうか?

このアメリカ軍の戦術で、日本軍は、戦わずして損耗するのです。

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