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2015年3月27日 (金)

ニューギニア決戦記(6) / 越智春海


兵科記号について

文章の理解の一助にと、図を多用しています。
ニューギニア戦は、登場部隊数も多く、兵科(軍内で細分化された部隊の専門職)も多岐に渡ります。
図に部隊名を入れて行くのは煩雑で、またごちゃごちゃして見にくくなってしまいます。

軍隊では昔から、兵棋演習(図上演習)の際、兵科記号を用いていました。
現代では、軍の作戦を図示する場合、NATO軍の標準化された兵科記号を用いるのが一般的なので、以後これに倣い図示して行きます。

部隊規模に関しましては、前回の記述を参考に願います。

前回の記述は日本陸軍に関するもので、アメリカ軍、オーストラリア軍には以下の例外があります。

1.「師団」の上位組織は「軍団」、「軍団」の上位組織は「軍」
2.オーストラリア軍はイギリス式編成ですので、大隊の上位組織は「旅団」、「旅団」の上位組織が「師団」
3.アメリカ軍海兵部隊は部隊番号に「M」をつけています
4.可能な限り部隊番号をつけていますが、以下の場合部隊番号をつけていません
・独立部隊
・集成部隊(つまり寄せ集め部隊)
・部隊番号が不明
・独立部隊を除く、日本軍、アメリカ軍の大隊以下、オーストラリア軍は中隊以下
5.兵科記号で、機械化されているかされていないかの区別がつけられますが、煩雑になるので割愛しました
・日本軍は機械化されていません
・アメリカ軍、オーストラリア軍は機械化されています
6.騎兵部隊は、この時代には馬には乗っておらず、歩兵として戦いました
7.参考までにアメリカ軍の歩兵部隊の規模は以下の通りとなります
・師団 約15,000人
・連隊 約3千人
・大隊 836人
8.参考までにオーストラリア軍の歩兵部隊の規模は以下の通りとなります
・師団 13,000-18,000人
・旅団 約3,500人
・大隊 800-900人



第六章 崩れ行く戦線

ダンピール防衛の崩壊

ニューギニア、ソロモン方面の情勢

この時までの、ニューギニア、ソロモン方面の情勢は、以下の通りでした。

1943年10月27日、米軍のモノ島上陸
1943年10月31日、米第3海兵師団のブーゲンビル島タロキナ上陸
1943年11月21日、米第2海兵師団のマキン島、タラワ島上陸
1943年12月15日、米軍のニューブリテン島マーカス岬上陸
1943年12月26日、米第1海兵師団のニューブリテン島グローセスター岬上陸
1944年1月20日、ニューブリテン島西半(陸軍航空基地ツルブ含む)放棄を決定

マーカス岬の失墜は、ダンピール海峡防衛がもう難しい事を意味し、12月15日第8方面軍は、ダンピール海峡両岸の放棄を決定しました。
フィンシハーフェン方面死守から、ラコナ-シホの線にて持久に戦略方針が変わりました。
死守は、死ぬ気でその地を守ると言う事で、持久は出来るだけその地を守り、難しければ後退も可です。

ラコナ-シホの線まで後退しなければなりませんが、米軍を陽動攻撃して12月19日にフィンシハーフェンから離脱出来ました。
安達18軍司令官は、12月上旬に41師団をマダンに向かうよう命令していたので、ニューギニアの主力はウエワク以東に全て配置された事になります。


昭和十九年の正月

米軍のグンビ岬上陸と、日本51師団、20師団の退却

20師団のラコナ-シホの線までの退却(日本軍の用語では転進)は、延々の縦隊による行軍で、年末まで完了しませんでした。

1944年1月2日、ニューギニアのキアリとマダンの中間、グンビ岬に米第32歩兵師団126連隊が上陸しました。
これがマッカーサーのカエル飛び戦法の始まりとされますが、フィンシハーフェン上陸もその一環ではなかったかと思います。
以後、日本軍はカエル飛び戦法に翻弄され、なす術なく戦力をすり潰して行きました。

第8方面軍は、18軍のシホ防衛の任を解き、マダン終結を命令しました。
安達18軍司令官は、20師団と51師団の残余に対し、グンビ岬の敵を避け、フイニステル山脈北斜面を通りマダンまで転進を示しました。
経路は再び、サラワケット越えに匹敵する、道なき密林の300kmにも渡る山地越え。
山地越えなので、実質3倍の900kmの行軍と考えられ、この時点ですら絶望的に食料が欠乏していたのに、道中補給の術はありません。

41師団は、阿部平助中将から、真野五郎中将に交代していて、真野五郎中将は道なき自然に遮られ、部隊掌握出来る地までなかなか進出出来ませんでした。
41師団はマダンになかなか到着せず、安達18軍司令官から再三の督促を受けました。

転進して来る20師団と51師団を収容するため、グンビ岬に上陸した敵がマダン方面に進出しないよう手を打つ必要がありました。
安達18軍司令官は、中井支隊を2分して、この方面に当たらせる事を命令しました。
撃破されていない敵を前に、兵力を2分するのは下策でしたが、割ける兵力が他にありませんでした。


ラバウルの落日

中井支隊の奮戦

20師団と51師団は、原住民の協力を得、延々と続く縦隊で、フイニステル山脈北斜面を進軍しました。
時には断崖に、ロープを頼りに進み、突然のスコールの濁流に飲み込まれ、姿を消した兵もいました。
低地では酷暑、高地では冷涼な気候で、栄養士失調の脱落者も少なくなく、マラリアに倒れる兵も多くいました。

難行軍を経て、縦隊の先頭が中井支隊に収容されたのが2月中旬、2月末までには全軍終結出来ました。
中井支隊に到着した先鋒の北本工作隊は、食料、衣料品を背負い、来た道を戻り、落語しかけている700名もの兵の命を救いました。
転進前1万3千の兵は、9千3百に減少しました。

分割された中井支隊は、全部隊収容後、再び歓喜嶺の防衛に着きます。

中部太平洋方面の戦局

中部太平洋方面に目を向けますと、1944年2月1日、米軍のマーシャル諸島中枢、ルオット島、クエゼリン島上陸しました。
旧日本海軍は、マーシャル諸島南端から攻撃して来ると考え、作戦準備していましたが、裏をかかれ決戦も出来ず狼狽。

2月17日-18日、米軍機動部隊による旧日本海軍の最重要基地、トラック島空襲で、海軍施設、航空基地、停泊艦艇が壊滅的打撃を受けます。
トラック島空襲までは、陸上航空基地は不沈空母で、これを艦艇で攻撃するのは下策と旧日本海軍では考え、米軍から空襲を受けるとは考えておらず、擬装も全くしていませんでした。
この空襲の影響で、ラバウルの航空兵力をトラック島に引き上げ、ラバウルは近辺を航行する米軍に何も影響を与えない、文字通り南海の孤島なります。

2月19日、米軍はトラック島のブラウン、メリレンに上陸、24日までに占領されました。

2月23日、米軍がマリアナを空襲し、海軍機93機を失いました。

2月29日、米軍がログネグロス島に上陸、すぐに事実上占領されました。
しかし小部隊による抵抗は、3月下旬まで続いていたようですが、戦局には何ら影響のあるものではありませんでした。
ログネグロス島アドラーは広大な港湾で、大きな海軍部隊を収容できました。
島は平坦で、いくつも飛行場を作る事が出来ました。

これにより、第8方面軍司令部のあるラバウルは、18軍のいるニューギニアとの連絡線も断ち切られ、完全に孤立しました。
しかしラバウルはまだ陸軍7万5千、海軍4万の兵力があり、要塞化されていましたので、米軍はあえて攻撃する事をせず、そのまま終戦を迎える事になります。


第二方面軍への転出

ソロモン・ニューギニア・豪北地区の日本軍配置

ニューギニアの18軍は、1944年3月14日、連絡線の途絶えた第8方面軍から、ニューギニア西部、豪北地区の第2方面軍に編入されました。
第2方面軍の担当戦域は、おおまかにはフィリピンとオーストラリアの間で、モルッカ群島、小スンダ列島、セレベス島、ニューギニア西部です。

大本営の意図としては、マッカーサー軍(米軍/豪軍)がフィリピンを目指しているので、連絡線が切れた第8方面軍より、進路上の第2方面軍の方が都合が良いと、越智は書いていますが、本当でしょうか?
これが越智の想像なのか、引用先があるのか、明らかではありません。
後年分かっている事は、大本営では、マッカーサーのカエル飛び作戦を把握出来なかったようなのです。
このタイミングで、マッカーサー軍がフィリピンを目指していたと、見抜けていたんでしょうか?

編入先の第2方面軍では、迷惑だったようです。

第2方面軍は、4ヶ月前・・・1943年12月に統帥を発動(正式に活動開始した)したばかりで、作戦地域は海軍と複雑に入り組んでいました。
容易に作戦計画は決まらず、予定していた兵力は届かず、軍需物資も揃わず・・・1月には参謀を東京に急送して、部隊や軍需物資の移送の督促をしましたが、かえって3月分の輸送の大部分を打ち切られました。
これは、どこの戦域でも同じ状況だったのに、米軍潜水艦の跳梁(ちょうりょう)で、輸送船の多くが沈められたため、無い袖は振れなかったようです。

やっと部隊の配備計画が決まったところでの、疲弊部隊の18軍の編入だったようです。
第2方面軍の最初の命令は、ウエワク以西に移転し、ホーランジア、アイタペ、ウエワクの航空基地の保持と、上陸してきた敵軍の撃破でした。

第2方面軍ですら、ほとんど補給がないので、18軍の移動にあたって補給はゼロ。
現在地のマダンから、最寄のウエワクまで直線距離で400km、一番遠いホーランジアまで800kmもあるのです。
ウエワクからホーランジアは、海岸沿いに道路がありましたので、行軍は容易。
しかしマダンからウエワクまでは、道なき千古のジャングルです。
途中ラム川、セピック川と言う大きな川があり、船でなくては渡れません。

2ヶ月の予定で、ウエワク目指して行軍しました。


捨てられた軍団

中部太平洋・ニューギニアの戦局

3月30日に、パラオ空襲があり、逃げられる艦艇は遁走しましたが、輸送船等の足の遅い艦艇は大損害を被りました。
日本海軍は、パラオ、ペリリュー島、サイパン島、グアム島から100機以上かき集め反撃しましたが、一方的に大損害を被り、部隊は壊滅しました。

その際のどさくさで、連合艦隊司令長官、古賀峰一大将が遭難して戦死。

4月22日、マッカーサー軍のホーランジア、アイタペ上陸。
ホーランジアは、日本軍の後方拠点で、兵站や病院関連の兵が7千人、第4航空軍の拠点で7千人、別に海軍が千人いました。
アイタペには、陸軍の後方部隊2千名。
いずれ歩兵ではなく、あまり戦う事なく、すぐに後退して第2方面軍旗下の36師団のサルミ方面へ移動しました。

恐らくは、それ以前から計画されていたんじゃないかと推察しますが、ニューギニアの制空権奪回を目的として作られた第4航空軍が、第2方面軍配下となり、メナドに後退しました。
陸軍の兵たちは、これをニューギニアから逃げたと揶揄(やゆ)していたようですが、そんなこと言ったらかわいそうですね。
第4航空軍の何倍もの敵航空戦力と相対し、一方的に戦力損耗して全滅寸前でしたので、そろそろ後退して、補充、訓練、再編成する時期ではなかったかと思います。
しかしホーランジアには、多数のパイロット、基地関係者がいて、ホーランジア、アイタペ上陸に巻き込まれ、飛行機で後退する事も出来ず、徒歩で逃げました。

主力部隊が移動中で、やむを得なかったとは言え、ホーランジア、アイタペは18軍の担当戦域。
敵中後方に取り残された安達18軍司令官は、ホーランジア、アイタペ奪回の決意をしたそうです。

この時18軍は、長い縦隊で行軍中、マダンからウエワクまで舟艇で直送もしましたが、敵魚雷艇の跳梁で命がけ。
20師団長片桐中将は、舟艇移動中、敵魚雷艇にやられ戦死しました。
後任は、歩兵団長の中井少将。

安達18軍司令官から、ホーランジア、アイタペ奪回作戦の具申があると、第2方面軍は快諾。
第2方面軍から兵力抽出も補給もせず、単独で行う作戦で、成功したらもうけもの・・・と言う作戦でした。
第2方面軍では、旗下の36師団の戦域をサルミまでとして、それより東へ向けませんでしたので、事実上18軍は見捨てられていました。

この辺の微妙な事情から、ホーランジア、アイタペ奪回作戦を実施したのではないかと、越智は書いています。

ちなみにこの後、アメリカ軍はフィリピンを狙う動きとなり、インドネシアで決戦するつもりだった第2方面軍も、見捨てられた部隊となります。
第2方面軍配下だった第4航空軍は、航空決戦兵力としてフィリピンに後退します。
司令官も、8月には「東條英機の腰巾着」というあだ名の、航空部隊指揮は初めて、そもそも事務屋の富永恭次中将に代わります。
その前に、東條英機首相が失脚したため、厄介払いで前線に送られたのでした。
この敗勢、日本軍にそんな余裕がなかったとは思いますが。

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